Silvia

story


ワンデイ・エンドロール

仕事も一段落し、帰り支度を始める私に降り注ぐ視線が一つ。それはあまりにも、悲哀と懇願に満ちたものであった。道端に捨てられている猫にも構わぬような性格の私が、一瞬手を止めてしまうほどの威力とは。惚れた弱みなのか、そりゃ只の道端に捨てられている猫と比べれば情はあるけれども。立ち上がろうと中途半端に腰を浮かせた私が彼を見下ろすと、鏑木虎徹は泣きそうな顔でへにゃりと笑った。

「なんですか、その目は。何か訴えたい気持ちは察しますが、私は遠慮なく帰らせて頂きますから」
「お願いだ、待ってくれ!」

 完全にデスクから立ち上がると、持ち前の反射神経を駆使して私の手首をつかむ。ハンドクリームなど縁遠いのだろう、ガサついた指が私の肌を擦った。

「…予想はつきますが、一応話だけは聞いてもいいですよ?」
「いやー…、今日の仕事は終わったと思ったんだけどよ、まさかこのタイミングで明日の朝提出の報告書が出てくるとは思わねえよな…」
「いつもデスクを綺麗にしておかないからですよ。で?」
「終わるまで待っててくれねえかなあ…なんて」
「断固却下」

 部屋の壁に掛けられた時計の針は12時を回ろうとしていた。私たちのデスク周り以外は消灯され、一人で居ることを出来るなら拒否したいような鬱蒼とした雰囲気が漂っていた。我ながらよく働いた、と半ば無理やり自賛し、少しでも清々しい気持ちで帰ろうとした矢先にまさか伏兵がいようとは。自分の目の前で両手をすりあわせ、懇願しているこの人物が私より一回り上の大の男とは到底思えなかった。

「お願い!アキちゃんお願い!」
「嫌ですよ、もうそろそろ終電来ますもん。帰れなかったら全力で虎徹さんのこと非難しますよ」
「送ってってやるからさ…。あ、むしろ俺ん家泊まりに来いよ、な?」
「いい年して下心くらい隠せないんですか…?」

 全く、と一息つくと何が虎徹さんを期待させたのか、徐々に彼の顔に笑みが戻ってくる。まるで私の返答を分かりきっているかのように。それが悔しくもあるのだけれど。「しょうがないな、」と一言つくと虎徹は満面の笑みを浮かべた。本当にこの人は振る舞いに年齢を感じさせない人だと思う。

「おっしゃ!じゃあ速攻で終わらせてやる」
「本当、しっかりしてくださいよね…」

 目の前で虎徹さんがペンを走らせる音と、時折私の口から漏れるあくび以外の音は聞こえなかった。静寂に包まれる。虎徹さんを待つだけの私は手持ち無沙汰で、居眠りでも始めようかと、うとうととし始めていた。そろそろ瞼が重力に逆らえなくなった時、大きなくしゃみが私の目を覚ませた。

「風邪ですか?体調管理は万全にとあれ程…」
「少し寒くてよ…」
「ああ…、空調止められてますからね」

 コートを羽織り、マフラーを身に着けている帰り支度万端な私は、特に寒いとは思わないのは当たり前ではあるのだけれど。ぶるり、と身を震わせる虎徹さんがシャツ越しに腕をこする。

「そんなに寒いですか」

 虎徹さんの左手をとると、一瞬で私の手の体温が奪われていく程冷たさを感じた。温かいコーヒーでも淹れてきますね、と一言断り立ち上がろうとすると、またもや虎徹さんの手が私の行動を阻む。

「いんや、アキが暖めてくれよ。…なんてな、冗談だ」
「何をおっしゃるのですか。私に冗談なんか通じませんよ?」

 は?と間の抜けた表情をする虎徹さんに対して意味深長に笑む。立ち上がり、虎徹さんの座るデスクまで移動する。失礼、と一言かけてから、虎徹さんとデスクの間に身をかいくぐらせる。向かい合わせに、虎徹さんの胴を跨ぐように膝に座ると、何が起こったのか未だ理解し得ない虎徹さんの顔のアップがそこにあった。

「な、何して…」
「暖めて欲しいと言ったのはあなたですよ。あなたが暖まるのに万全の策として行動を起こしたまでなのですが?」

 虎徹さんの胸に身をすり寄せる。?少しめくれたスカートの裾から見える腿を凝視する虎徹さんがいやに素直で面白い。ペンなぞ最早持っておらず、何処に添えて良いか彷徨っている手が宙を泳ぐ。
 どうしてこんな行動を起こしたのかだなんて愚問である。ただの私の気まぐれ。勿論、恋人同士という前提があるからこそではあるのだけれど。

「アキ、お前一丁前に誘ってんじゃねえぞ…」
「手出ししてもいいですが、その前に仕事を終わらせましょうね」

 完全にお預けをくらいつつ、再びペンを持つ虎徹さん。その背に腕を回し、本来の目的通りに暖めてやる。私の体温が彼に温もりを移したのか、または別の理由なのか分からないけれど、確実に体温が高くなってゆく。目の前の欲と戦う虎徹さんがやけに愛おしい。
 ふと彼の身体越しに時計を見ると、終電が丁度発車した時刻になっていた。どちらにせよ、今日は深く眠ることが出来そうにないと落胆する反面、ペンを置く音を待つ期待が胸を渦巻いていた。