▽ story

右耳にキスを
「で、何で私の所に来るわけ?」
「そりゃ何でって、お前…、怪我してるからじゃねえか」
「私は健康管理課の職員であって、何遍も医務員じゃないって言ってるでしょうが」
「知ってて来てんだよ、悪ぃか」
「何開き直ってんのよ、分かってるなら尚更タチが悪いわ。まあいいわ、ほら、怪我した所出しなさいよ」
デスクの足元から医療品の入った箱を取り出すと、資料でごった返している机に無理やり空きを作って、置く。アキは自分に治療できる程度の怪我の時にしか虎徹が来ないことを知っていた。勿論、医療設備がジムに併設された健康管理課に備わっているはずがないのも理由ではあるが。
消毒液に濡らした脱脂綿を虎徹の腕の切り口に当てる。滲み出る消毒液が虎徹の鍛えられた褐色の肌を滑った。くしゃり、と虎徹の表情が歪む。
「いっってえ!もうちょっと優しくやってくれてもいいじゃねえかよ…」
「何をどうすればこれ以上優しくなるのよ。ごめんなさいね、これが私の精一杯で」
「本当可愛くねえな…」
「あら、その可愛くない私の所に毎度毎度、怪我する度に来るのはどういう理由なんです?」
「好きだからに決まってるだろ」
「そりゃありがたいわ」
アキはフン、と鼻を鳴らしつつも虎徹の怪我を治療する手を止めない。アキ自身、自分は本当に可愛くない女だと自負していた。こんなに気張った態度しか出来ないのは、無意味なプライドのためだった。いっそのこと、虎徹自身の手でプライドを崩してくれたのならどれだけ楽なのだろうと、心密かに思っていることもまた事実であった。
「嘘、本当はすげー可愛い」
「…、何よいきなり。おだてたって何も出ないわよ」
「そうじゃねえよ、なんっつーか、表に現れない愛情?みてえのあるよな」
「言ってる意味が分らない。-100ポイントね。アニエスさんにでも言っておくわ」
「言葉じゃ素直じゃねえのによ、やってることは素直だっつーことだよ。包帯の巻き方とかすげえ綺麗じゃねえか」
アキは虎徹のその言葉に泣きたくなった。「治療、ありがとな」と頭を撫でてから、顔を覗きこんでくる虎徹に、本当は”当たり前でしょ”の一言でも言いたかった。しかし、何も言えずにただ、単調に包帯を巻く。何故この人は私のことが好きなのだろう、とシンプルな疑問がアキの頭に浮かんだ。怪我をした時だけではなく、毎日のように理由を作っては現れて、好きだという虎徹の根本的な理由が分からなかった。
「あのさ、虎徹は何で私の所に毎日のように来るの」
「そりゃお前、好きだからって言ってるじゃねえか」
「ごめん、質問変えるわ。何で好きなの、私のことが」
「具体的な理由なんてねえよ。ただお前を守りたいと思った時から、ああ、俺はお前の事が好きなんじゃねえのかなって思っただけだよ」
包帯の端に留め具を付け、一巡の作業を終える。作業が終わってしまったことで手持ち無沙汰になったアキは、何も言えぬまま、虎徹の方も見れずにいる。目線を自分の組んだ手のひらから、虎徹の方を見ようとした途端、何か堅くありつつも、人肌の温もりが残るものにぶつかる。それが虎徹の胸板だと知った瞬間に、頬に体温が集まる。背中には虎徹の片腕が回され、もう一方は後頭部に手のひらを添えていた。虎徹の肩越しに見える無機質な白塗りの壁がぼやける。
「…好きで、悪ぃかよ」
「わ、私も、虎徹が好きだって言ったらからかう…?」
聞こえるか聞こえないかの声で、問う。「んなわけねえだろ」と、虎徹が笑う。堰を切って涙が溢れてくる。子供をあやすようにアキの背中を撫ぜる。嗚咽とともにひくつく肩を虎徹が愛おしそうに抱いた。虎徹の肩口に口を宛がい、漏れる声を必死に止めるアキ。
「そんなに気張ってちゃ、疲れんだろ。お前の弱いとこ、俺だけが知ってりゃ十分だろうが、な?」
「…ん」
深呼吸を数回繰り返す。落ち着いたところを見計らった虎徹が、アキの両頬を手のひらで覆い、親指で器用に涙を掬う。虎徹の目を真っ直ぐ見れないアキは、視線を虎徹の耳にやる。形の良いそれが、自分の声を拾うのだと思うと無性にキスを落としたい衝動に駆られた。
どちらともなく唇を近づける。二人の息遣い以外何も聞こえない中、アキには白い無機質な部屋が、淡い暖色の空間に変わったような気がした。
もう、何もかもに興味が無いふりをして笑う日々など過ごさなくていい事にアキは酷く安堵した。