Silvia

story


贅沢はゴミ箱に捨てて

「…めんどくせえ」
「ああ、花の女子高生がそんな汚い言葉使うだなんて」
「毎度毎度面倒くさいんですよ足立さんは!」

 そう言ってアキちゃんは僕の顔面に向かって、昨日の夜、情事のどさくさに紛れて脱ぎ捨てられたワイシャツを投げた。小指の爪ほどの大きさのボタンが僕の目の下に当たる。地味に痛い。ワイシャツに顔を埋めて泣いたふりをしてみても、アキちゃんは着々と自分の制服に腕を通すだけで、僕の方なんてちっとも見てくれやしない。…このままじゃ、支度を終えたアキちゃんは「じゃ、ちゃんと施錠して家を出て下さいね」なんて台詞を残して学校へいってしまう。必死になって引き止めてみようとするけど、それを足蹴にして、まるで僕のことなんて気にしてないような顔で出て行ってしまう。僕は、毎朝この瞬間が嫌いだ。



「いいですか、足立さん。私は学生の本分を務めなきゃならないんです。時計読めます?今8時20分になろうとしてますよね?私、後20分で着席してないと先生が五月蝿いんです。散々足立さんが引き止めるから、1学期も半ばにして早々、遅刻も6回目を迎えようとしてるんですよ?私のような真面目な学生が腐ったミカン帳に名前を書かれてしまうんです。大変不本意なんですからね」
「…アキちゃんが真面目?ハハッ、僕みたいなのと付き合ってるくせに真面目だなんてよく言うよねえ」
「…さよなら」

 丁度靴下を履き終わったアキちゃんが、そう吐き捨てた。慌てて訂正しても、部屋の隅に転がっていた通学カバンを拾い上げて、今にも立て付けの悪い扉を開けて去っていこうとしている。ああ、アキちゃんが学生なんかじゃなければ、朝の至福のときを一緒に迎えられるというのに。そりゃ僕だって出勤しなければいけないよ?でも、目の前にいる愛おしい彼女と一緒にいたいって思ったっていいじゃない。それが恋だとかいうものの本質の一部なんじゃないの?大体、こんなクソみたいな世の中のシステム作った奴誰だよ。学校とか仕事だとかクソみたいな物、とっとと無くなっちまえばいいのに。

「いい加減にしてください。足立さんも遅刻しますよ。堂島さんに怒られるってのも分かってるんでしょう?」
「分かってるけどー…」
「せめて下着くらい履いてください。その股についたモン、何時まで晒しておくつもりですか、見苦しい」
「は?散々昨日その見苦しいもんにヨがっていたの誰かな?」
「女子高生に手を出した若手刑事…、新聞記事が楽しみですね」
「…ごめんなさい」

 ああ言えばこう言う、のはお互い様だけれど、口が達者なところはなんとなく、悠君に似ている気がする。同じクラスで、席が近くて、おまけに放課後もつるんでいたら色々と似る所はあるのだろうか。…クソガキが、うちのアキに何しやがる。大体、顔も悪く無いし、頭脳明晰だし、口は達者だし、ご近所との付き合いはいいらしいし、気に食わねえんだよ。変に色気づきやがって、アキに気があるのだって分かってるんだからな。同い年だからって、リードしてるとか思ってんじゃねえぞ、畜生。そんなクソガキのところにアキが自ら行ってしまうのなんて僕が耐えられると思う?本当ならこの部屋にアキちゃんを閉じ込めておいて、僕も仕事を辞めて、朝から晩までずっと一緒に居たいくらいなのに。それでも、世間体とやらに押しつぶされてしまう僕自身、情けない。本当、世の中クソだな。

「お願い…後5分だけ」
「先週もそう言って結局私を2時間目の終わりまで引き止めましたよね?色々鳴上くん達にどうしたのかと聞かれて答えに困ったんですからね!?」
「彼氏に引き止められてたって言えばいいじゃない。簡単でしょ?」
「簡単なわけあるか!彼氏が誰だとかうるさいに決まってるじゃないですか。それが嫌なんです」
「僕だって言えばいいじゃない。刑事って肩書きもあるんだし、何も心配されることないでしょ?公務員ばんざーい」
「足立さんだからいけないんですよ…」

 そう言ってアキちゃんは項垂れた。”なんで私、足立さんと付き合ってるんだろう”と自問自答をする傍らで、僕はやっとこさ下着に片足を突っ込む。夏が近いとはいえ、朝方だと流石に全裸で居るのは堪えるからね。…その寒さとは違う、冷たい何かが僕の背中を這い寄る。必ず、僕が幸せだと感じる時に、僕を現実へと引き戻すような何か。いや、僕はその正体を知っている。僕は殺人者だという事実。と言っても、そこは別に気にはしていない。殺人に対する後ろめたさだとか、背徳感だとか、焦りだとか、後悔なんてこれっぽっちもない。反省もしていない。だけれど、いずれアキちゃんとお別れする事になるかもしれないと思うと、満足に幸せを感じることすら出来ない。まるで、それが僕に与えられた罰のような。だから、せめて、少しでもアキちゃんから僕に向けられる愛を、受け取っておきたいと思っているだけなのに。上手く、いかない。

「じゃあ、私本当にそろそろ行きますから」
「…いいよ、いってらっしゃい」
「…今日はおとなしいですね。まあ、その方が助かりますけど。じゃあね、足立さん」

 例えば、この今、僕がさめざめと泣いてみたりしたらどうだろう。アキちゃんは狼狽えるだろうか。…いや、気持ち悪いと一蹴して終わりなような気がする。僕自身ですら気持ち悪いと思うし。
すらりとしたアキちゃんの綺麗な足が、一歩、また一歩を踏み出して行く。ドアまであと数歩も持たない。じゃあね、だなんて寂しすぎやしない?

「アキちゃん、愛してるよ」

 うわ、なんだこれ。自分でもさぶイボが立った。愛してるだなんて、ベッドの上でしか言ったことの無い言葉がするりと僕の声帯を通って吐きでていた。僕のガラじゃない。ああ、またきっとアキちゃんにウザい、とか言われるだけなんだろう。本当、僕って報われない。
ふと足を止めたアキちゃんが、こちらを振り向いた。大股で僕に近づいたかと思うと、目の前で大きなため息をつく。漫画の表現で言うと、きっと僕の頭の上にはクエスチョンマークが幾つも飛んでいるに違いない。

「本当足立さんはしょうが無い人ですね。本当にだらしなくて、放っておくのは得意なくせに放っておかれるのは嫌いだし、仕事はサボるし、生活習慣がなってないし、三十路近いし」
「はは…アキちゃん、酷くない?」
「でも、誇っていいですよ。そういう足立さんに惚れましたから、私。
私ね、世話焼きなんです。もっと頼っていいですよ、足立さん。ま、頼るのと甘えるのは違いますけど」
「…うん」
「今足立さんがしているのは、甘えの方ですよ。数時間もすればまた会えるじゃないですか。だから、今はこれで許して下さいね」

 柔らかい物が僕の唇に強く押し付けられた。ほんの数秒の間だっていうのに、何分にも感じられた。彼女が僕から離れると、そのまま唖然としている僕の頭を撫でて「行ってきます」の言葉を残して出て行った。開け放たれたドア、アキちゃん越しに見えた空は、晴天だった。扉が閉まる風圧で、アキちゃんの残り香が鼻孔をつく。

「クソ…」

 アキちゃんがいつの間にかやってくれていたのだろう、カーテンレールに吊るされたスーツを取り、袖を通す。また、一日が始まった。昨日までは嫌で嫌でしょうがなかった朝なのに。いつものように、稲羽警察署に出勤して、堂島さんに怒鳴られるのだと分かりきっているのに、今日はどうしてこんなに浮き足立っているんだ、僕。
アキちゃんに会えるまで、あと12時間を切った。