▽ story

影踏み
皆が春休みを迎えようとしている頃、私は憂鬱でしょうがなかった。二年生最後の期末試験をこなし、各々の成績表に愚痴もつけ終えた。もうすぐ学年が一つ上がる。たったそれだけの、何の変哲もない時間の経過の形式的な節目というだけであるのに、嫌で嫌でしょうが無い。浮かれ気分で騒ぐ同級生の声が果てしなく耳障りだった。意味の無い当て付けだというのは重々承知している。だけれど、鬱屈とした気持ちをどこかにぶつけてでもいないと、どうにかしそうだった。悠が、元いた所へ帰ってしまう。まだ悠と出会って一年も経っていないというのに、好きになってしまったのを後悔するくらいに存在が大きくなりすぎてしまった。
「アキ、元気出しなよ。…、私達だって鳴上君が都会に戻っちゃうの、寂しいけどさ…」
田舎町の曇り空が空を飾る窓の外を、ひたすら焦点の合わない目で見つめ続けていた私を見兼ねたのか、千枝が私に話しかける。千枝の方に向き直ると、その後ろに同じように、どこか元気の無い陽介達が私を見ていた。でもそこには、悠の姿は無い。きっと職員室にでも呼ばれているのだろう。
「な、何言ってんの、元気だって!ほら、私が悠を笑顔で送り出さなくてどうすんのよ…」
気持ちと反比例した言葉が、脳を介さずに出てくる。いわゆる、”思ってもいない事”を口にしているのだ。明らかに千枝は私の滑稽な空元気に気づいている。言ってしまった反面、取り繕う術など、生憎私には持ち合わせていなかった。心と言葉の摩擦が、淋しさを増幅させて、涙を生み出す。何回出し切ったと思っても生産される生理的な水は、私の視界をも阻む。
「…ごめん、先に帰るね」
言葉数少なく、その場に居たく無くて通学カバンを肩に引っ掛けると、席を立つ。何かを言いたげな陽介がドアに向かう私を追ってくる。それすら聞きたく無くて、半ば無理矢理振り切るように出て行った。卑怯、臆病者、そんな言葉が脳裏をよぎった。結局、私はテレビの中でもう一人の私と戦っても、根本的に変わることは出来なかったのかもしれない。身勝手で、卑怯な自分。大嫌いで、それでも受け入れたはずのもう一人の私。
「アキ、おい!アキ!」
後ろで陽介が私を呼ぶ声が聞こえる。何事かと私の方を見る学生も、何もかもが鬱陶しい。私が特捜の雰囲気を壊しつつあるのは分かっている。悠と離れたく無いその一心が我儘であることも。それが、どうにもならないということも。
校門をくぐろうかという所で、私を追いかけてきたらしい陽介が私の腕を掴み、それ以上の進行を阻止する。陽介が蹴飛ばした砂利が私のローファーを汚す。
「陽介、痛い。離して」
「お前、ふざけんのも大概にしろよ!何で悠を避けてんだよ!…里中の言うように、悠が帰っちまうのが寂しいのも分かるけどよ、悠だってお前と離れんのがどれだけ寂しいのか分かってんのかよ?!少しでも長く、側にいてやれよ…!」
「だ、駄目なんだよ…、これ以上悠と居ると、さよならした時に、私おかしくなっちゃうから…!」
「はあ!?だから今から離れて慣れておこうってか!?…余計に意味分かんねえよ!最初に笑顔で悠を見送るっつたのお前じゃねえか!」
陽介がここまで私に怒鳴るのは初めてだった。怒りに顔を歪め、腹の底から私を叱咤する。陽介が怖い、と思ったのも初めてだった。自業自得ではあるけれど。
悠との別れを意識し始めた時に、確かに私はそう言った。しかし、悠との別れが近づけば近づく程、不安と、焦りと、悲しみと、世の中にある負の感情が全て合わさったかのような錯覚に陥った。そんな私を悠が心配する度に、私が駄目になっていく気がして、悠に近づかなければいいと自分の本心と真反対の行動をする。まるで天邪鬼。
「そういうことだったのか。大体理由は分かった」
いつの間にか陽介の背後にいた悠が私をいつもと変わらないポーカーフェイスで私を見つめる。ろくに陽介の顔を見れず、陽介のスニーカーを見つめながら会話をしていた私は悠の近づいてくる気配に全く気づかなかった。卑怯な私は、やっぱりその場に居たくなかった。でも、体重移動をして、方向転換をすればいいだけの話なのに、悠の存在がそれを許さなかった。…どうしよう、悠はこんな身勝手な私を見てどう思った?
「…後はお前次第だぜ、相棒」
「…ありがとう、陽介」
陽介が悠の細い肩をポンと叩くと、再び校舎内に戻っていった。眼の前に居る悠の顔が見ることができない。私に何度も触れた、そのしなやかな指が視界に入っただけで呼吸ができなくなりそうになる。私にはまだ、それに触れる権利があるのだろうか。
「アキ、こっち向いて」
「…ごめんなさい、悠、ごめんなさい」
「いいから。俺は別に怒ってはいない。…少し寂しかったのはあるけど」
恐る恐る目線を上げた先には、優しく笑っている悠がいた。久しぶりにまともに見た悠の顔は、相変わらず整っていて、寛容さも並外れていて、非の打ち所なんて無かった。こんな私が汚いものに見える。そんな私を愛した悠の元に、私はまだいてもいいのだろうか。また、抱きしめて欲しいと思ってもいいのだろうか。
「おいで、アキ」
どこまでも優しい声が私の鼓膜を揺らす。両手を広げた悠が私を待っていた。無意識の内に求めていた悠の温もりを求めに、その腕の中へ飛び込む。テレビの中でも、いつも私を守ってくれた腕が私の身体をホールドする。悠に触れずに、ただ想うだけの覚悟も、もはや何処かに行ってしまった。
「アキ、俺もずっと一緒にいたい。だけど、やっぱり無理なんだ。
それでも…、それでも俺の我侭かもしれないけど、それまでアキに触れていたいと思う。駄目か?」
どんな言葉も声にならなくて、駄目か?という問いに首を横に振って応える。「そうか、」とふわりと笑う悠に今までに体験したことのないくらいの安心感が体中を駆け巡った。
「今日、俺の家に誰も居ないんだ。良かったら来ないか?アキと、一秒でもずっと一緒にいたい」
今度は頭を縦に振ると、満足そうな悠が私の頭をポンポンと2回手のひらで撫ぜる。その少し体温の低い右手を私の左手へと到達させると、指を絡ませる。その指にひかれるまま悠と歩みを進める。久しぶりに触れた悠の指の感触、何も変わっていない。その悠然とした態度も。ただ一人、馬鹿みたいに鬱屈で卑屈な態度を取っていたのは私だけなのか。自分に踊らされていた。本当に滑稽。悠が好きだってことは何一つ変わっていないというのに。
*
田舎特有の静寂さが辺りを包む。聞こえるのは風に揺られて擦れる木の枝同士の音と、互いの呼吸音だけだった。月光以外入ってこない部屋の隅に座る悠の足の間に、悠に背中を預けるようにして座る。私はせめて、と、私を抱きしめている悠の手を強く握る。今は、これ以上のことが出来るとも思えないから。
同じシャンプーの香りがする悠の髪の毛が私の茶色の毛と混ざった。悠に貸してもらったシャツの薄い生地を通して悠の鼓動と温もりが伝わる。何時間こうやって何も言わないまま抱きしめられているのだろう。
涙が流れれば、悠はそれを拭ってくれるし、悠の手を握り返せば、負けずと私を抱きしめる手を強めた。
前触れもなく、私の身体を半回転させ、胸をくっつけるように私を抱きしめ直す。「…アキ、愛してる」と私の返事を待たずに、今日何回目かわからないキスを落とす。深く吸うように貪った後は下唇を甘咬みする。抑揚をつけて私の唇を弄び、息を吸うために隙の出来た私の舌に自身のを擦る。舌先を離し、私の目を見つめた。悠が眉を八の字にして優しく笑う。耐え切れなくなったかのように、また私の背に腕を回した。
もう、私の感覚も、匂いも、視界も、口内も聴覚も五感が全部悠に侵されてしまったようだった。
「…忘れないでね、私のこと」
「…忘れるもんか」
皮肉にも、また陽が昇り始める。望まないのに、また朝が来る。