▽ story

6月7日(火)
講義室の机の隅に、足立透と、小さく書いてみた。文字のバランス、高さといい、我ながら絶妙である。教授の話を半分聞きつつ、にやにやしながらその文字を見つめていると、隣の席に座っている友達が何事かと私の顔を覗き込んだ。私の視線をなぞり、彼の名前を発見した彼女は、とても楽しそうに私に聞いた。「彼氏?」と。私は「違うよ」と答える。執拗な彼女の質問攻めの果てに、足立さんは私が追っかけている名の売れない俳優だという事にしておいた。
私にとって足立さんは俳優のような存在だった。一度街中で足立さんを見かければ、そこにスポットライトが当たっているかよのように、そこだけ一段と明るくなる。俳優と言う割には冴えない顔をしている時の方が多いけれど、シワの酷いワイシャツも、寝癖の目立つ髪の毛も、こっそり見つけた首の裏、右肩近くのホクロも、全部好きなんだ。でも、いざ足立さんと話そうとすると、言葉を選びすぎて、出掛かった言葉を飲み込んでは吟味を繰り返す。結果、何も話せないのに近いのだ。足立さんに言われた、「分かりやすいね、アキちゃんは」という言葉から、ある程度は私の気持ちを分かっているはずなのだけれど。
ここ最近の事件のせいで、足立さんは忙しそうで心配になる。独身男性の生活なんて容易に想像できる。きっとろくな物を食べてはいないだろうし、足立さんの服装を見るに、洗濯だって満足にしていないのだろう。でも、事件のお陰でそんな足立さんを見かけることが出来るのが嬉しくてしょうが無い。会話の最後に、思い出したかのように「気をつけて帰りなよ」なんて言ってくれた日には、舞い上がってしまって眠れやしない。ああ、人の不幸を土台にして幸せを感じる私ってなんて嫌な女なのだろう。
「うわっ、汚っ」
「…否定は出来ないけど、いきなり言われちゃうと傷付くなあ」
雨降りの火曜日、運がいいのか悪いのか、傘を忘れてずぶ濡れになってシャッターの降りている小西酒店前で雨宿りをしていたところを足立さんに拾われた。骨の一本折れているビニール傘に二人、肩を濡らしながら歩いた。足立さんに近寄っていい口実が出来たせいで、いつもの私よりは積極的だった。濡れた髪の毛を耳に掛ける仕草を、いつもよりゆっくりと、魅せつけるようにしただけだっていうのに。重度の湿気にもヤラれたのか、足立さんが、部屋に寄ってシャワーを浴びていけば、と提案してきたのだ。もちろん、その言葉が意味するところも知っている。足立さんがこの街に来てから女の人に縁が無いのだって。
靴を脱いで、時折踏みそうになる足立さんの私物を避けながら進む。適当に座って、と言われても衣類で足の踏み場も見つからないというのに、どうしろというのだろう。テレビの前にあるローテブルの周囲にある衣類を片隅に寄せて、二人分のスペースを作る。
テレビでも見ようかと思ったけれど、リモコンが見つからないので直接主電源を押しにテレビに近づいた時だった。画面が大きく歪んだかと思うと、黄色が混じった砂嵐が渦を巻いていた。思わず、好奇心半ばに手をテレビの画面に触れてみようとすると、触れるどころか、そのまま手首まで吸い込まれていく。身の危険を感じ、慌てて手を引っ込める。代わりに、足元に転がっていた空き缶を、テレビの中に吸い込ませる。確かに、重力に従って落ちていったというのに、何時まで経っても空き缶が落ちた音が聞こえて来なかった。時計は既に12時を回っていた。
唖然としたまま立ちっぱなしで居ると、バスルームに消えていた足立さんがこちらに顔をのぞかせ、バスタオルを投げてよこそうとしたところで私の意識が戻ってきた。
「…ありがとうございます。足立さんも、スーツ脱いだほうがいいですよ。臭くなりそうですし」
「…それ、どういう意味?」
「嫌だなあ、湿っているまま放っておくと臭くなりますよ、って意味です」
転がっていたハンガーを足立さんに手渡す。くたびれていたスーツが、悲しそうに肩の部分を濡らしていた。カーテンレールに無造作にスーツをかけると、濡れた髪の毛を拭いている私に近づく。私が使っている所とは反対側の、余っている布の部分で顔を拭く足立さん。
「新しいタオル持ってくればいいじゃないですか」
「こっちの方が早い上に節約的でしょ」
「ふふ、なにそれ」
「アキちゃんもほら、髪の毛全然拭けてないし」
私の手からタオルをひったくると、無造作に、荒々しく私の髪の毛を拭き始めた。足立さんの手が、私の頭の至る所を這う。少しくすぐったくて、それでいて心地よくて。それになにより、足立さんが近かった。私も調子に乗って、足立さんの胸板に頭を預けてみる。すると、足立さんはぴたりと動作を止めた。一呼吸置いたのを感じる。頭のてっぺんに手が乗せられたかと思うと、私の髪の毛を手櫛で整え始めた。ああ、幸せだ。
「例えば、さ。このまま君の首に手をやるとするじゃない?」
「え?ああ、はい」
「こんなふうに、両手とも」
私の髪の毛もろとも、まるで、首を締めるように手が添えられた。そのまま、力をいれられてしまえば、死んでしまう。冷たい手が、私の肌を粟立たせた。
「このまま、力を入れたらどうなると思う?」
「死にますね、私が足立さんに勝つくらい抵抗しない限り」
「そうだね。ところで、アキちゃんさあ、殺人ってどう思う?」
声帯あたりに添えられた、足立さんの親指が上下する。私の喉元をくすぐる、と言えば聞こえがいいが、実際は私は死の淵に立っている。生かすも、殺すも足立さん次第だ。それでも、なぜか恐怖心など微塵もない。傍から見れば”いかにも”な状況なのに。
殺人、ヒトゴロシ、か。私は人の倫理観をなぞった、薄っぺらな答えを出すつもりなんて毛頭なかった。
「どう、って言われても。人が死ぬことの一つの原因でしか無いと思いますよ。自殺も、他殺も、事故死も、病死も、全部一緒だと思います。ただ、死んだ方法の違いってだけで」
足立さんの気に入る答えなのかどうかなど関係無かった。ただ、私が持っている考え方を提示しただけで、特別なことは何もしていない。しかし、気がつけば喉を圧迫していた手は降ろされていた。代わりに、何のスイッチが入ったのであろうか、顎に手を添えられたかと思うと、口付けられ、瞬く間に口内を足立さんに犯されていた。
「んう、」
「ッは、君も馬鹿だよねえ、こんな男の家に付いてくるなん、てさ」
言葉を交わしながらのキスは、満足に会話を成り立たせようとはしなかった。舌の裏側に足立さんの舌が差し込まれ、裏筋をなで上げられる。根本から、舌先へとたどり着いたその次をきっかけとして、腰を撫でていた足立さんの手が、下へと向かう。私のスカートの中に、足立さんの手が差し込まれて、太ももの内側を撫でられる。腰が疼き、見えない何かに膝を折られたかのように、私はその場に立っていられなくて思わず座り込んだ。雨によって濡れたスカートが太ももに張り付いた。足立さんは邪魔そうに、腰のあたりまでたくし上げた。雨の水分か、快楽によるそれの所為か、湿っている私のそこに纏わりついた布に指を這わす。
性急な愛撫にまどろみそうになったその時、視界の端にテレビが映る。
──黄色い砂嵐が映るテレビ、最近起こった怪奇な事件、アンテナに吊るされた死体、締められた首、殺人についての問い。
ああ、そうか、成程。
「ね、え足立さん…。順番が可笑しく、ないですか…ッ」
「え…ああ、なに?」
「なに?じゃ、ないでしょう?分かってるくせに」
「言葉なんてくだらないもの、欲しいの?もっと欲しいモノ、あるくせに」
「あっは、それ、セクハラですよ…。そうですねぇ、好きですよ、足立さん」
「奇遇だね、僕もだよ」
「ちゃんと言ってください」
「愛してるよ」
”愛してる”なんて足立さんが言うと、なんだか滑稽に見えて、思わず笑いが漏れてしまう。
私は…、背負っていけるのだろうか。足立さんの秘密を知ってしまったことに、後悔をしないだろうか。怖気づかないだろうか。今、面と向かって足立さんに過ちを告白されたとしたら、何くわぬ顔で全てを受け入れると断言できるだろうか。…なんて、きっと足立さんは、私が気づいたことに気づかないふりをするのだろう。ヒントを与えたのは、自分だっていうのに。そうやって、言葉にしないで秘密を共有させて、きっと、足立さんはいつか、私の知らないうちに居なくなるつもりなのかもしれない。ずるい。
「好きとか愛してるの言葉って、結局は只の言葉じゃないですか。そういうのを求める人って滑稽に思えて。現実でも、ドラマとかでも」
「君ねえ…自ら求めて、僕にそれ言わせたくせにそんなこと言う?自分が間抜けだって言ってるようなものだよ?」
「そうですね。間抜けなんです、私。でも…今ならその気持ち、分かるなあって思えちゃって。
…愛してますよ、足立さん。
でも、要らなくなったら捨てて下さいね。そうだなあ、テレビの中にでも落としてくださいな」
止まっていた手が、動く。頬へと伸びてきた足立さんの手が、微かに震えているような気がした。
雨の音が、五月蝿い。