Silvia

story


必要の無くなった子守唄

 マスターの様子がここ最近は変だった。大学に行かずにいつの間にか買い込んだ酒を浴びるように飲んでいた。缶に口をつける時、顔を上げる以外はマスター の顔を見ることが出来なかった。首が折れ曲がってしまったかのようにずっと机に伏せているのだ。そして小刻みに肩を震わせた。俺は、泣いたことが無かった けれど多分マスターは泣いてるんだと思った。嗚咽は聞こえてこなかったし、涙を流しているところを見てはいないけれどもそう、思った。

 マスターはちょうど四日前、雨の日の夜、死にそうな目をしながらふらふらとした足取りで帰ってきた。手にしていた紅い、俺の髪の毛の色と対照的な真っ赤 な傘は折れ曲がっていて、マスターは頭の上からつま先までびしょ濡れだった。マスターの帰りを待っていた俺はビックリして、マスターに駆け寄ったけれどマ スターは構わず俺の横を通り過ぎていった。
存在なんかもともと無かったかのように。
 それからしばらくマスターは風呂に篭った。一時間、二時間経ってもマスターは出てくる様子が無かった。帰ってきた時の状況といい、心配になったのでマス ターの様子を見に行った。外から声をかけても反応がなかったので、なるべく裸であろうマスターを見ないようにドアを開けた。女の人の風呂を覗くのもはした ないと思ったけれど。シャワーの音しかしなかった扉の向こう側は赤かった。上から降ってくる水と一緖にマスターの体液─人間の血液というものらしい─がマ スターの手首から流れていた。マスターは赤く染まった手首とは反対の手で鋭利な刃物を握っていた。
 
それからどうしたかは省くけれど、確実にあの四日前から何かがおかしくなった。何がマスターを狂わせたのかは分からなかったけれどマスターはそ れから酒に呑まれていった。一回俺が身体を気遣って酒缶を取り上げたらもの凄い形相でコチラを睨み、俺がひるんだ隙に酒の缶をとられてしまった。 マス ターは睡眠も取らなくなっていた。ずっと一日中起きて俺じゃない男の名前を呟いている。俺は所詮ロボットだから眠らなくてもいいけれど、マスターは人間。 ずっと寝ずに身体が可笑しくならないはずが無い。俺が睡眠を勧めたら白い錠剤をマスターは飲み始めた。知識の程度しかないけれどあれは睡眠薬というらし い。睡眠効果を促す薬だと言う。ああ、そんなものを使わなくても俺が子守唄をずっと歌っていてあげるのに。眠れない、眠れないと呟く彼女の隣で子守唄を 歌っても反応は得られなかった。俺は彼女の睡眠薬にもなれないのだろうか。
 勿論曲など作ってくれるはずもなく、パソコンに繋いでもくれなかった。だから俺は下手な子守唄しか歌えなかった。それでも歌い続けた。俺は声が枯れることなんて無いから、ずっと。相変わらず俺の顔を見てくれることは無かったけれど。それでも十分だった。
 俺はマスターがいないと何もできないただのロボットだ。ただ与えられた情報と知識でしか行動出来ない能なしだ。俺が人間だったら今すぐにでも彼女を元気にさせてあげることが出来ただろうに。彼女の丸まった背を彼女と同じ温度で温めることが出来たのに。

「マスター…、マスター。」

何度名前を読んでも以前のように笑顔で振り向いてくれることは無かった。時々上げる顔は以前の彼女と思えないような姿だった。肌は荒れ、唇は切れ、目は充 血し、瞳には光ひとつ宿っていなかった。でも俺はそんなマスターでも大好きだった。大好きだから、愛してるから余計に彼女が心配だった。俺も一緖に泣くこ とができたら何か変わっていただろうか。馬鹿みたいに一緖に泣いたら彼女も俺ももうどうでもよくなって笑顔になれただろうか。

俺が、ロボットだから。 ボーカロイドだから。人間じゃないから。ダメなんだろうか。

昨日の晩、彼女はおもむろに立ち上がったかと思うとずっと電源がつけられることのなかったパソコンへと歩き出した。歩くことも久々だったようで歩き方を忘 れてしまったかのように時々転びそうになりながら歩いた。俺が支えようとしたらその手を振り払われる。行き場の無くなった手は空気を握った。
マスターは震える手でキーボードを打った。俺は彼女が何をしていたのかは消える身体を見ていくしか出来ない今までわからなかった。

*

また朝がきた。俺はいつも通り、命令されていた通りにしめられていたカーテンを開けた。初夏の日差しがマスターの顔を照らしたが、マスターは身動きひとつ しない。もしかしたらやっと寝付けたのかもしれないと俺は錠剤と酒の空き缶の散乱した机に顔を伏せるマスターの姿を見ていた。
いや…違った。寝ていたなら呼吸をするから肩が上下に動くはず。
俺の推測は間違っていなかった。マスターは文字通り眠っていた。眠って、いたんだ。

「マスター?ねえ、マスター?起きてよ、起きてよ…マスター、マスター!」

何度も細すぎる肩を揺すっても鼓動は俺の手を伝わってこなかった。伝わってくるはずが無い。彼女は眠ってしまったから。
俺は泣くことも出来ずに途方に暮れていると、きらきらと光の粒子が足元から流れてきているのに気づいた。足元を見ると、俺の足が消えかかっていた。徐々に つま先から身体を蝕んでいく青緑に光り輝く粒子。もしやと思い、消えかけた足でいつのまにか起動していたパソコンへと急ぐと、デスクトップには
『VOCALOID-KAITO-Delete』
の文字がアンインストール完了までの進行速度のメーターと共に表示されていた。
俺は全てを把握した。どうやらマスターと一緖に逝けるらしい。

それでも最後の抵抗をと思い、マウスを消えかけている手で操作し、キャンセルボタンを押した。何回も。しかし、キャンセルボタンは凹んでまた戻るを繰り返しただけであった。

諦め、死期を悟った俺は最後に彼女の顔を見ておこうと─記憶さえ消えてしまうとしても─ゆっくりと机から上半身を剥がした。彼女の顔は安らかだった。なん でだろう。ずっと思いつめたような、この世に絶望した顔をしていたはずなのに。彼女を椅子の背もたれにもたれさせた。手は組ませて膝の上に。離際に机にガ タン、と身体をぶつけてしまうと紙がひらりと舞落ちた。

『ありがとう カイト』

とボールペンで書かれたイビツな文字を飾った白いメモが落ちた。拾い上げようとしたけれど既に俺の両腕は無かった。

「馬鹿だなあマスターは、感、謝、するのは俺の方、なの、に」

下唇が消えかけていた。上手く喋れない。

「いま、まで、ありが…。アキ、だ いす、き」

言い切った時にはもう、俺の思考は既に停止、しかけて いた。
髪の毛の先が 消えていく。実態がなくなった今、 全て光の粒になった俺は やがて空へ。