▽ story

三問目
「せんせー結婚しないの?」
「小娘が何いってんの。いいから課題終わらせなさい。先生も帰れないでしょうが」
「じゃあずっと課題やらない」
そう言って銀八はまた煙草をふかし始めた。教室で煙草を吸うなと抗議すればレロレロキャンディだって言い張るけれど棒の先から出る煙は明らかに鼻につく臭いを放っている。せめてもの配慮なのか、煙を吐く時だけはそっぽを向いてくれる。そんな銀八のささやかな優しさが私は大好きだ。
空欄を埋める手は進まない。ぶっちゃけ課題なんてどうでもいいし、このまま何も書かずにしらばっくれていればいつまでも薄暗い教室に二人っきりだ。なんて美味しいシチュエーションっだろう。…銀八にとってはいい迷惑だろうけど。
「大体なんでこんな点数とっちゃったわけ?あれですか反抗期ですか。反抗期じゃなかったらなんなの、解答欄を区切って四コマ漫画とか描かないよね!?名前もジャンプ作家の名前とか書かないよね!?」
「せんせー喜ぶと思ったんだもん」
喜ばねえよ!と盛大なツッコミを頂いた私は先生が促すまま課題に手をつける。随分と陽は落ち、開けっ放しの窓からは数日前までの暑さが嘘のような、秋が間近まで迫っていることを知らせる涼しい風が吹いてきた。そろそろジャンプを読むのに暗いと思ったのだろうか、銀八は立ち上がり、電気を付けに行った。正直、明るい中で私の顔を見られたくない。銀八を独占できる嬉しさが顔に出ているはずだから。惜しげ無く銀八はそれについて触れてくるはずだ。少しでも誤魔化せればと銀八の後ろ姿に声をかける。
「さっきの話だけどさ、先生もいい年じゃん?結婚しないの?」
「相手がいねーもんでな」
「さっちゃんは?銀八のこと大好きじゃん」
「高校生に手ェだしたら犯罪になるだろうが。先生独房行きよ?」
「あはは、だったら私が毎日面会に行ってあげるよ」
パチ、と電気のスイッチが入る音がした。一瞬で周りが明るくなるのに、なんだかそれがチープに見えてしょうがない。なんていうんだろう、無駄に白い教室の壁が無機質的で私はあまり好きじゃない。窓から微かに入ってくる外の電灯の明かりでぼんやりと照らされている方が好きだったりする。
銀八はまた私の目の前に座ると、読みかけのジャンプをめくり始めた。私はというとシャープペンを完全に置き、頬杖をついてその伏し目がちな銀八の顔をじっと見つめた。
「じゃあさー私をおヨメさんにしてよ」
「課題の一つ3時間かかる子を候補になんか先生は入れません」
「課題終わったら候補に入れてくれるわけ?」
「さあな、候補止まりかもしれねえけどなァ」
ちえ、とつぶやきつつも再びシャープペンを取る。漢字の書き取りをするフリをして銀八をよく観察してみる。明るくなった教室が嫌だとか何だとか言ったけれどラッキーかもしれない。銀八の少し赤くなった耳にじっとりと目線を合わせてみる。形のいい耳に彩られた赤は銀八が”照れている”ことを表していた。もう、それだけで私は歓喜する。薄々、以前からは銀八が私に対して他の生徒とは一線を画す対応を取るなあとは思っていた。こうして放課後に二人きりの補修だとか、図書室で本を探していたら”偶然”銀八がやってきて一緖に探してくれたりとか、友達と喧嘩して一人で昼食をとっていたときも”偶然”銀八がやってきて一緖にお昼をとったりだとか。そこまで先生が生徒に干渉することはありえるのだろうか。私は一つの仮説を期待した。
「嘘つけ。銀八さあ、私のこと好きでしょ」
「冗談は顔だけにしとけや」
「うわあ…失礼、そんな私に惚れてるくせに」
「…銀八、ごめん、私こそ大好きだわ」
なんだか唐突に、耳が赤くなる以上に反応のない銀八に不安を覚えた。急に居たたまれない雰囲気の中に飛び込んでしまったかのようだった。自然とため息のような重い呼吸をせざるを得なくなる。鞄を引っつかんで帰ろうとする。たった、一歩踏み出したところで阻まれてしまったのだけれど。右手はページを捲り、左手は私の腕を掴む。目線はやっぱり漫画雑誌。そして、銀八は煙草らしきものを加えながら器用に言う。
「そこまで言うんだったら責任とってくれんだろーな」
「…もちろん、亭主関白させて頂きますヨ?料理と掃除だけは得意なもんで」
「そりゃあ良い嫁に成れそうじゃねえか」
初めてのキスはレモン味じゃなかったし、別段ロマンチックな場所でもなかったけれどそれはそれで私たちにお似合いなのかもしれない。
終わらないプリントは既に風に飛ばされてごみ箱の近くへと落ちていった。誰も拾い上げようとしないまま、教室の電気は消され、陽も落ちきった後の教室には誰も居なくなった。