Silvia

story


CONNECTION

なんとなく一人になりたいときってあると思う。
煩わしい友人の愚痴から逃れるために委員会だと嘘をつき一人、誰もいない屋上へと続く階段の踊り場の隅に腰掛けた。左隣にある段差をいくつか登り、扉を一枚隔てた先は灼熱地獄だというのにここは空気がひんやりとしていて気持ちがいい。真夏日の炎天下の屋上で昼飯と決め込む輩なんてそういるはずもなく、人通りも無い。好条件が揃ったベストスポットは私だけが知ってればいい。 …勿論、友人にすら教えてなんか上げる予定もない。

そろそろ授業が始まるからと、腰を上げた時だった。いきなり屋上の入り口が開いたと思うと長身で金髪の男が数人の男によって階段から突き落とされそうになっていた。落下地点になるであろう場所には私がいるわけで。男と目線が合ったとき、彼は”これはマズイぞ”という表情をしていた。私も例外ではなく。

男の足が滑った瞬間、私は覚悟していた。あれだけ図体の良い男があの高さから私へと落ちてきたら?擦り傷だけじゃ済まないはずだ。ダメもとで目を瞑ってしゃがむとうまい具合に男は私の頭上を越え、落ちた。 無機質な床に身体が叩きつけられる音。恐る恐る目を開けた先には、頭から血を流して倒れている男の姿だった。
突き落とした本人たちはやばい、という表情をすると私の横を通り、あっという間に逃げ去って行った。途中、そのうちの一人は私に口止めという名の脅しを掛けながら。

さて、どうしたものか。何事も無かったように起き上がって頭を掻いたら手が真っ赤なもんだから少し唖然としているこの男と、どう接すればいいのだろうか。

「…逃しちまったか」
「…そこかよ。もうちょっと心配するべきところがあるんじゃないかな」

思わず口から出てしまったツッコミに男はこちらを睨んできた。そうだよね、見知らぬ人にツッコまれていい気がする人なんていないよね。何処と無く気まずい空気が流れる。血だらけの金髪男と目線が泳いでいる女子高校生が並んで座っているのって一見、なんだかシュールだ。

「怪我はねえか」
「え、あ、ああ、大丈夫だけど、多分、君の方が重症だと…」
「あ?これか、気にすんな。大して痛くねえ」

いやいやいやいや。そりゃ貴方が降ってきたときにはちょっと絶望を感じだけど最終的に一番の被害者は君だからね。あ、でもさっき逃げ去って行った男たちの顔も相当血だらけだった気がする。ちょっと放心気味であまり覚えてなかったけれど。
額を伝う真っ赤な液体に少し気が遠くなってしまうものの、このまま「あ、大丈夫なんだ。じゃあね」も人間としてよろしくないよね。それに保健委員という建前上見逃すわけにも行かない。

「保健室行った方がいいんじゃ…」
「喧嘩してたことバレるだろ」
「…だよね。」

といっても、建前上保健委員なだけで、まともに委員会に出たこともなければ、怪我の手当の講習回なんぞ出ようとも思わなかった。先生が言っていた『いざという時の為に講習はちゃんと受けておきましょうね』のいざという時っていうのはこういう時なのか、と妙に納得してしまう私が腹ただしい。
しばらく無言で見つめ合っていた私たちであったが、埒があかないと踏んだ私から言葉をかける。

「…取り敢えずその血だけ拭いておこうか。さっきの人たち追いかけるにしても、そんな血まみれで廊下歩かれたら皆ビビると思う。」
「…そうか?」

そうだよ!って思わずつっこみたくなる衝動に駆られた。が、また睨まれるのが嫌なので心のなかに留めておいた。

「取り敢えず、これ貸すんで拭いておいてください」

スカートのポケットにつっこんでおいたハンカチを渡す。それから私は言葉を撤回した。どうせ血まみれになるんだから返さなくていいです。と。何か言いたげな目線を私に送った平和島さんであったけれど、無理矢理にでもハンカチを握らせると、渋々といったように額の血を拭き始めた。

「…悪ィな」
「いーえ。」



少し申し訳なさそうに笑ったその顔がずっと頭を離れずに数年経つとはこのときはまだ思わないわけで。


*


淡いピンク色のハンカチを手にしたとき、思い出した。遥か昔でもない、かといって最近でもない、時系的にも私の人生の中で微妙な位置にある高校時代の思い出。私はそっとそのハンカチを売場に戻すと、唐突に思い出された記憶に思いを馳せた。結局、高校時代、あれで一回きりだった平和島静雄との会話。ずっと好きだったとは言え、その好きな人と接触した時の状況なんて案外忘れてしまうものなのか。しかし、ここでフラッシュバックしてきたのも何か意味があるのかもしれない。何かの予兆だろうか?懐かしいというより、ふとした寂しさがつのる。


池袋にいれば必ずといっていいほど見る彼の姿を私は毎日通りを歩くたびに探してしまう。仮に見つけたとしても、どうする訳でも無いけれど。いつも横目でその人間とは思えないほどの腕力で人を投げているところしか見ない。声を掛けてみたって、どうせ20幾年生きてきて出会った人間の一人にしか過ぎない私の事なんて余程思い入れが無い限り覚えているはずがない。

大体、色恋沙汰自体、考えるだけ面倒臭い。それも学生時代の物が蘇っただなんて更に厄介だ。一時的な感情なのに今更思い出すなんて。やめよう、考えるだけ無駄だ。思い出したくない。

一時的な、感情なのに。

ばかばかしい、と一人店を出た先の路地裏で煙草をふかす。最近では何処もかしこも、路上喫煙禁止を謳い、喫煙者にとっては肩身の狭い街になってしまった。それでもどうしても身体に悪いと思いつつも毒を吸いたいという欲は抑えきれない。依存症、という言葉を見るたびに鼻で笑ってしまう。こんな細い管に依存しないと生きて行けない様な人生なんですよ、と言い訳もしてみたことはあるが、誰もが眉を寄せるだけだった。どうも周りには嫌煙家が多い。本当に肩身が狭い 。

「あ」

しまった、煙草を咥えたのはいいものの、肝心のライターが見つからない。咥えた煙草をケースにしまおうとした時、ボッと炎が口許で揺れた。突然現れた銀色のジッポライターの持ち主は、私の煙草に火がついたのを確認すると、自分の煙草にも火をつける。背の高い、よく見知ったそれは中学時代に同窓生だった田中トムだった。周囲との付き合いが浅い私にとっては珍しく、中学卒業以降も連絡をとりあっていた数少ない友人の一人だった。
と、言われれば男女の仲を想像する人もいるかもしれないが、残念ながら私とトムは悪友に近い関係である。

「トム、か。ビックリさせないでよね…火、ありがと」
「そりゃお嬢さんが困ってるとなりゃな。それにしてもよ、久しぶりだなあアキ」

異性から名前を呼ばれることは余り無いため、何年来の友人だとしても胸がくすぐったくなる。白い煙と共に呼吸を一拍おく。

「そうだね、それにしてもトム…あんた今何の仕事やってるわけ?」

どう見ても や のつく職業にしか見えないトムの格好にまず目が行く。柄物のワイン色のワイシャツが特に目を引いた。むしろチンピラ、といったところだろうか。しかしフレームの細いメガネがインテリ臭を漂わせている。そこのギャップがなんとも胡散臭い。知り合いでなければ、速攻で逃げていいたはずだ。訝しげな目で見やると、トムは笑いながら言う。久しぶりに見た友人の笑顔は一点の曇りもない。

「借金の取立てっつー、まあ他人からは尊敬されはしねえ職業だわな。でも聞いて驚けよ、俺に後輩が居るんだがよ、そいつが結構な有名人でな」
「へえ、有名人と。私が知っている人?」
「池袋に長いこと居るなら知らないはずはねえ。そういやお前そいつと中学、高校と同じ学校だったんだぞ。年は一つ下でな、まあ俺が知る限り中学での面識はねえと思うけど。取り敢えずお前の後輩だったわけだな」

年は一つ下、と言われたところで思い当たる後輩などいなかった。
学生生活に身を入れるタイプの学生でなかった私は、何をするにも面倒だと思うばかりで勿論部活動などに入っていたわけもなく。強制的に入らされた委員会では表記上は保健委員として高校の三年間を過ごしたが、一回もそれらしいことをしたことがない。
いや、一回だけ他人の手当をしたことはあるのだが、それはもう今現在の私にとってはリアルタイムに思い出したくない過去であるわけで。
と、まあ私と面識のある後輩など数人に限られてくるが、私が名前も顔も思い出せないのに、その後輩とやらが私のことを覚えているはずがあるだろうか。

「さあ?全く思い出せないんだけど…私と先輩後輩の関係のある人だなんていなかったし…」「そいつは覚えてるらしいけどな。なんでも、高2の時に喧嘩して怪我しときにハンカチを借りたんだそうだ」
「ハンカチ、」

嫌な予感はするものの、話題を転換し、トムとしばらく昔の思い出を共有している楽しみを噛み締めながらぽつりぽつりと談笑していると、通り側の曲がり角からやたらと長身で細身の男が缶コーヒー二つを片手に現れた。
一瞬でフラッシュバックされる記憶と、その男の名前が頭の中で掻き混ざった。 咄嗟にロクに吸っていなかった煙草を携帯灰皿に押し付け、ポケットにねじ込む。
トムにシズオ、と呼ばれたその人は間違うことなく私の想い人その人で。一瞬で顔が赤くなるのが分かったが、こちらの状況など欠片一つ把握などしていない方から見た私は変な女でしかない。
一見トムの知り合いらしい女と認識されているのだろうか、お陰で怪しむ様子一つ見せず私に会釈をしたが私が誰だということは分からないらしい。

あんな一瞬の出来事など覚えている方が特殊なのだ。覚えているほうが、

「おお、静雄こいつが新藤美月だ…ほら、この間話していた」
「!新藤…」
「アキ、ほれコイツが例の後輩、平和島静雄。見たことあんべ?」

いつの間にか話の種にされていたのだろうか。まあ、どうでもいい。今はそれどころではない。

トムに紹介され場の雰囲気に流されるまま頭だけ下げた。そして、ろくにその人の顔を見ないまま、見ないうちに去ろうと、脚を一歩引いた。私の予想が外れていなければ平和島静雄は確実に私のことを知っている。何故あの場面だけで私の名前を知ることができたのだろうか、それとも以前から知っていたのだろうか、などの問題は今考えるべきではない。今は、出来る限りこの人の前で自分自身が妙な行動を起こさないようにするだけだ。
冷静にここから去るまでの手順は考えられるというのに、それに反比例するかのように私の顔は瞬く間にどんどん赤く染まる。

「ああ…!そういえば、ちょっと私、その、この後修理に出してた眼鏡取りに行かなきゃいけなくて、失礼します」

この挙動の可笑しさに誰が気づかないはずがあろうか。それでも構わないと、小学生が回れ右をするように身体を反転させた。
と、心の何処かでは予想していのだけれど、待てと言わんばかりに手首を掴まれる。心の中でヒイイと叫びながら心臓が縮み上がる思いと、その、掴まれている感触に頭が真っ白になる。

「ななな、なんでしょうかッ」
「俺、新藤さんと会ったことありますよね」
「は…あ、まあ」

年上には敬語を使え。おばあちゃんから口酸っぱく言われていた言葉である。最近の若い人は敬語も使えなくてねえ、と嘆いていたのもつい最近のことで、今彼の口から出た敬語(みたいなもの)に感心する間もなく私は引きつる顔を真顔に戻そうと苦心していた。

「高校の頃っすけれど、俺、新藤さんに手当してもらったことあるんです」
「ええと…人違いじゃないかなあ、なんて…。中学、高校って一緖だったらしいってのはトムから聞いたけど、私と貴方はハジメマシテ、だと思うよ?どこかで見かけたとかじゃないかな?」
「そんなわけないっす」

じっと見下ろされている気分はどうだ?と言われたら根拠のない焦燥感と、冷や汗の気持ち悪さがなんとも不快です、と答えよう。それほど私は逃げ道のない平和島静雄からの圧迫に目を回していた。
この人は何がしたい?何が言いたい?全く予想がつかない。何年も前の出来事を覚えていたのは衝撃的だったけれど、だから何だ?
私みたいにずっと恋心を引きずっていたという訳でもあるまいに。

「名前も知ってるのもふ、不思議なくらいだし、ねえ。あ…トムから聞いて知っていたとか、でしょうか」

もうなんだ、混乱と言っても一言で表せない状況に置かれた私は、語尾が自然と丁寧になる。相手を敬うとかそんなんじゃない。焦りと恐怖からだ。ここで私が覚えていますなんて言ってみろ、やっぱり覚えてるんじゃねえか、なんで覚えてるんだと迫られ、挙句の果てには惨めな姿で平和島静雄に好きだったからですと白状しなければいけなくなるのではないだろうか。

…え、 ああ、そうか。そうだよ、あんな一瞬のこと、”余程思い入れがないと覚えているはずがない”と言ったのは私じゃないか。

「いや、名前はあの時上履きに名前が書いてあったすから。あと、あん時借りたハンカチに委員会名札挟まってましたし」
「ああ…やっぱりあん時無くしたのかあ…」

なんでこの人は私が覚えている前提で話してるん…だ、って私も墓穴を掘ってしまったわけだが。

「やっぱり 覚えているんじゃないすか」

う、と言葉に詰まった私は平和島静雄の方に振り返る。
雰囲気を感じ取ったのか、トムが背を向けてどこかに歩き始めたのが見えた。余計な気の使い方をしやがって!むしろあんたの存在が私を現実へと引き戻してくれていたキーパーソンだったのに!と、こうやって平和島静雄と向き合っているのが夢のようである。
いや、実際に夢であって欲しかった。高鳴ってしょうがない鼓動も、目を覚ましたらいつものように皮膚の下でゆっくりと血を巡らせる為のポンプだけでいて欲しかった。でもこれは明らか夢でなく、正直に言えば目の前で私を強い眼差しで見ているこの人こそ、ずっと焦がれていた、

「あん時の礼、返してなかったっすから」
「いや…別に、時効だと思うし、それにあれくらい…どうした訳でもないし、今更…」
「嘘っす、俺嘘付きました」

平和島静雄は、私の手首を離した手で頭を掻いた。何かに焦るように「あー…」と力が抜けたように天を仰いだかと思うと、大きな手のひらで自分の目を覆った。微かに喉元まで赤くなっている。自然と身構えてしまう私。平和島静雄はだらん、と立つことさえままならないとでもいうようにしゃがみこんだ。
ふと、顔を上げる。真っ赤になった顔で私を見上げる。上目で私を見上げる。

「忘れられなかった、す。先輩が卒業しても池袋にいたら時々見かけて、俺、何度も話しかけようとしたんすけど…その、」
「え、あ」
「俺のことなんかあんな一瞬のこと覚えてねえだろうなって、思ってたんすけど、さっき、」
「ああ…覚えてるって自供したようなものです、けど。ま、まあ、あんな出会い方忘れる方が無理なんじゃないかな…、その…インパクト強かった、し。逆によく私のことなんか覚えてたなって…あはは」
「トムさんからよく話をしてもらってたっすから、中学校も同じだったみたい…っすね」
「あー…らしいね…私もさっき始めて知ったんだけどね…」

お互い顔を真っ赤にしながら一生懸命言葉を紡ぐ。筋道の通らない会話に苛立ちなんか覚えず、返ってここで、言うべきで、言われるべきであろう言葉のタイミングを探す。時折ごにょごにょと口ごもる彼の足元には二つの冷めた缶コーヒー。未だ飲まれないそれらは何時になったらプルタブを開けられるのだろう。
やがて時間の経過など気にならないくらい、微妙な距離感にジレンマを覚える。一つ、踏み出してみれば彼は顔をまた上げてくれるだろうか。そうして期待している言葉を私に暮れるのだろうか。日が暮れる前には並んで歩きだせているだろうか。何年も積もった”想い”の山を崩して笑顔で差し出せるのは一瞬後か、はたまた夕暮れ時か。