Silvia

story


Camellia

夏の夜、既に夜中の11時を回っていた頃だった。竜ヶ峰帝人は、コンビニ袋を片手に、なるべく人通りの少ない道を選びつつ帰宅しようとしていた。18歳以上の外見をもつならばまだしも、下手をしたら中学生に見られなくもない、その若干の幼さを含んだ容姿は一種の彼のコンプレックスであった。いくら非日常を求めていても、くだらないいざこざに巻き込まれたいと自ら思うほど、何かが抜けている人物ではない。ましてや補導など…、されたらされたで情けないものには違いない。

雲の多い夜だった。いくら夜中だと言っても、蒸し暑い夏の外気は、汗を一つ垂らすのにも時間を要さなかった。目に入りそうになるそれを拭うこと数回目、汗を拾う自分の腕によって覆われた視界が再びクリアになったその瞬間、見えたのは、見間違えるはずもない、来良学園の制服だった。
──なぜこんな時間に…、
それに、と帝人は付け加える。夏休みだというのに、なぜ制服なのだろうかと。
同じ来良学園の生徒として、話しかけた方がいいのだろうかと思う反面、いくら同じ学校の人であろうが、初めて会う人に軽々しく声を掛けてもいいものだろうかと相反する考えが浮かんだ。
しかし、止まった足は動かないままだった。このまま立ちすくんでいても逆に不審に思われるだけだ──、線の細い女を尻目に歩き出そうとしたその時だった。

「竜ヶ峰…くん、だよね」
「えっ…、新藤先輩?」

彼女は、ジジ…と今にも消えそうになる電灯の下へと入り込む。時折数秒間だけまともに光る白灯に照らされる顔はいつにも増して白く見えた。
恐ろしくか細い声の元へと駆け出すと、自分より少しだけ低い位置にあるアキの頭がユラリと揺れた。慌てて肩を支えると、夜食の入った袋がバサリと落ちた。そんなことにも気を止めず、「大丈夫ですか?!」と問いかける。縦に頭を振っている彼女の頬は青白くなりかけていた。

*

「すみません、何も無いですけど…」
「ううん、こちらこそ無理にごめんね。すぐ出て行くから…」

帝人は”出て行くから”というフレーズが引っ掛かってしょうがなかった。”帰る”ではなくて”出て行く”。帰るというワードを使わなかった。ということは、と筋道を立てていくと、帝人の頭には一つ、答えが浮かんでいた。
帝人は、アキに初めて会った時から、正直、健康的な人だとは思えなかった。身なりこそはちゃんとしているものの、痩せていると単に形容するには悩むくらいの体型に、たまに服の間から見せる蒼い痕。一々、過剰に選びすぎるような言葉──、人の琴線に少しでも触れてはいけないとでも言うかのように気を使うような。

しかし、どんな理由があろうとしても、この時間帯にこんな手荷物一つ無い女を一人外にだすほど非道では無く、寧ろそれは帝人にとっては若干の建前であった。同級生の杏里に抱く感情とはまた違う、熱を持った想いを抱く帝人にとっては。

「えッ…いや、いいんですよ、その、ずっと居てくれても…僕は構いませんから」

帝人の言葉を最後に、シンと静まる部屋。ただ、蛍光灯の光が揺れただけであった。妙な空気に帝人の額からは汗が一筋垂れた。そんな中、アキは湿気を含んだ藁の匂いのする畳へと座り込んだかと思うと、そのまま崩れるように倒れた。

「わかってるんでしょ?この痣の意味とか、こんな時間にうろついている理由とか」
「…それは、少し」

一匹の蛾が、窓にとまる。光の漏れる窓に張り付いたそれの羽の裏側はとても醜い。

いつもと異なった口調のアキに多少の驚きを覚えるものの、いつものようにためらいがちなのとは違い、直な言葉遣いに帝人は少し戸惑う。帝人に顔を背けている分、表情が読み取れず、上手く顔色を窺いながらの会話が出来ないことに不安を覚えた。
そんな帝人を横目に、自嘲気味に笑ったアキのすぐ横に帝人は腰掛けた。半袖のシャツから伸びた腕やスカートから覗く脚には、袖口ぎりぎりのところに痣が白い肌にぽつりぽつりと花を咲かせていた。帝人は少しばかり眉を潜めると、アキの次の言葉を待った。

「あまり無責任に”ずっと居てもいい”だなんて言わないほうがいいよ、
…今なら聞かなかったことにしてもいいし」
 
帝人は再び黙った。


──こんな時、どうすればこの人を安心させてあげられるのだろう。なんて言えばいい?考えてみても思いつくのは安っぽい言葉や、どこかで聞いたことのあるような芝居がかったような言葉しか浮かんでこない。…酷く限られた語彙の中でしか言葉を組み立てられないような僕は無力だ。ダラーズの創始者が何だ、ただ

それを自分の唯一の誇りとして自分の中だけで振り回しているだけじゃないか──

「ちょっ…と、何する、の」

帝人はアキを覆いかぶさるように抱きしめた。女の人に自ら抱きつくなど、幼少の頃に母親に抱擁をねだったとき以来であった。ましてや、年上の女の人に対してなど、帝人自身ありえないと思いながらの行為だった。
それでも、アキの頭をあやすように撫でると、抵抗とまではいかないものの、帝人の身体がこれ以上自分に密着させまいと遮っていた腕は、だらしなく畳の上に戻った。

「あ…、僕何やって…すみません、今退きますから…」

はっ と我に返った帝人は慌てて退こうと畳に両手を着いたとたん、白い腕が帝人の両肩へと伸びた。そのまま首に手が回され、ぐっと引き寄せられる。予想をしていなかった事態に、バランスを崩した帝人は先程の状態へと逆戻りをする。

「いいよ、ごめん、しばらくこのままでいてくれないかなあ…」

紺色のTシャツは、嗚咽をあげる彼女のハンカチぐらいには、なっただろうかと帝人は靄がかかったような思考の中で溺れていた。なぜだろう、と帝人は自問自答する。自分はこの人みたいに悲しい立ち位置にいるわけでもないのに、悲しみが溢れてくる。と。アキの嗚咽と帝人の呼吸がリズムよく部屋の静寂を切っていった。


*

──温いなあ…
いつも目を覚ます時には感じない温かみに馳せながら、畳から剥がすように顔を上げた。調度身を起こしたことによって、アキの腹あたりにあった帝人の頭は、滑り落ちて太ももの位置にあった。
見たこともない部屋…では無かった。畳の匂いは幾らか感じ無くはなってきていた。くすんだ窓は夏の朝の日差しを通している。数秒、辺りを見回すと簡素な部屋と自分たち以外には何もなかった。アキは昨日の夜にかけての出来事を忘れているわけではなく、むしろ夢であってほしく無いとでも言うように帝人の短い髪の毛を撫でた。