▽ story

オオカミ
私は男の人と話すのが苦手だ。先生とかある程度歳のいっている”おじさん”ならば、なんとかなるけれど…。特に私と同年代の10代後半から30歳手前辺りの男の人が苦手だ。
きっかけは、私がまだ9歳の頃の話だった。私がスクールから帰る途中、一緒に帰っていた友だちと喧嘩をした。当然、一時とはいえども仲違いをした相手と一緒に帰るなどしたくなかった私は、一人で帰ることを選んだ。いつもとは違う道を一人で歩いた。電灯の数も、人通りも少ない道。そんな風景が、以前母親に読んでもらったホラーチックな絵本の挿絵に似ていたことを覚えている。雨上がりの、暑さと湿気とが入り混じった、肌にまとわりつく空気。早く帰りたかったのだけれど、わざわざあんな遠回りをしただなんて、きっと、あの時の私は友達への怒りでどうかしてたんだと思う。
──一本先の曲がり角を曲がれば、もうすぐ家だ
そう思い、目線はそちら一点に絞っていた。なんだか、他に目線をやったら何かが出てきそうで。いや、実際、目線を他にやらずとも、それらは出てきた。近くのハイスクールの制服を着た男の人達だった。溜まり場にしていたのだろう廃屋から出てきた三人が私を囲む。いくら高校生とはいえ、当時の私からしたら脅威以外の何物でもなかった。行き成り手を捕まれ、廃屋へと連れ込まれる。湿った絨毯に私を座らせると、陰鬱な雰囲気を纏った三人は、自身のであろう教科書を私に見せ、解けもしない問題を出しては私を馬鹿にした。力の差を年下相手にしか見せられなかったのだろうか。適当に時間を私で潰して、飽きたのであろう後は、無傷で私は開放された。今思えば彼らはとても幼稚であるが、私は怖くてしょうがなかったのだ。それから、ずるずると何年も引きずって今に至る。
美術館に迷い込んだ時、ギャリーはイヴにしたように、私に手を差し出した。ギャリーの言動が一般に言われる女男だとしても、私にとってはギャリーは男の人だった。ギャリーの手に触れる瞬間、トラウマが蘇りそうだった。あの陰鬱な高校生の湿った手がフラッシュバックする。それでも、私は一人になりたくない気持ちが勝り、ギャリーの手をとったのだ。するとどうだろう、今度はギャリーの手を離したくないとさえ思ってしまったのだ。
無事に美術館を抜けて、ギャリーとイヴと別れた後も、私はギャリーのことで頭がいっぱいだった。
”また会いましょうね”
その言葉を胸に、毎日を過ごした。相変わらず男性は苦手だったが、ギャリーにはむしろ好意を抱く程だった。ギャリーの持つ女性的な部分が男性に対する苦手意識を緩和させたのだろうか。…と当初は思っていた。しかし、このギャリーに対する好意は、恋愛のそれからきているのだと認識するのに時間はかからなかった。そうなると、増々逢いたい気持ちが面白いくらいに膨らんでいった。
ギャリーと逢いたい、話したい。出来れば──、もう一度手を繋ぎたい。
ギャリーと恋人関係になれるだなんて思ってはいなかった。だから、せめてギャリーに一番近い人間でありたいと願っていた矢先、ギャリーと再会したのだ。それから会う回数を重ねた末に、ギャリーは今日みたく快く自分の家に私を招き入れた。
今日も、またギャリーと一緒に居られると思うと、退屈な授業に耐えるなど容易いことだった。
「いらっしゃい。さあ、入ってちょうだい」
「おじゃまします」
手土産として頼まれていた、ある作家の画集をギャリーに渡す。この画集はもう既に廃刊したもので、私の父親が所蔵していたものだった。嬉しそうにギャリーが、パラパラとページを捲る。整頓されたギャリーの部屋に馴染むように置いてあるソファに腰掛ける。出されたミルクティーを浮ついた気持ちを冷ますように飲み下した。ギャリーも私の隣に座る。ちゃんと男性一人分の重さでソファが沈んだ。
「アキも一緒に見ましょうよ」
「え、うん」
ぎこちなさを悟られたくなくて、ソファの端の方に座っていたのだけれど、ギャリーが私と密着するように座り直した。私の肩に、ギャリーの腕が触れる。触れた場所が次第にじんじんと熱くなっていくのが分かる。薄着のギャリーにこの熱が伝わっていかないことを願った。
ギャリーが本に載っている絵画の写真をなぞる。目線は自然とギャリーの指へと向かう。指はしなやかなのに、私の手と比べるといくらかごつごつとしている。口調は女性的だけれど、身体的な部分から見ると、やはりギャリーは男の人なんだとつくづく思う。ギャリーが一枚の絵を指さす。
「この絵は実際に美術館で見たことあるわ。何時だったかしら…?確か──…あら?」
「えっ?何、ギャリー…。私、ちゃんと聞いてるよ?」
「いや、そうじゃなくてね。アキ、あなた少し顔が赤くないかしら?」
「そ、そうかな…」
正直、顔が赤い自覚はあった。露骨に隠すのも変だろうと思い、あえて何もせずにいたのだけれど、気づかれてしまった…。顔が熱を持っているのかを確かめるふりをして、両手で顔を覆って、隠してみる。しかし、ギャリーが画集をテーブルに置き、見せてみなさいよとばかりに私の両手を顔から剥がそうとする。私の顔をよく見ようとしてギャリーが顔を近づける。整ったギャリーの顔が目と鼻の先にあるというだけで、心臓の鼓動が早くなる。
「熱でもあるのかしら?少し寝ていったらどう?」
「い、いや…本当に大丈夫、だから…!」
「だめよ!風邪は引き始めが肝心なんだから!」
ギャリーが私の両肩を押す。行き成りだったものだから、そのまま素直に倒れる。頭は肘掛けにもたれる形になった。しかし何より、ギャリーが覆いかぶさっているような状態の今、私は、もう、どうしていいのか分らない…。
「お、押し倒されたみたい…」
一瞬自分が何を言ったのかが分からなかった。私が発言した瞬間、空気が固まったのを感じた。ギャリーの前髪で彼の表情は読み取れなかった。私はとんでもないことを口にしてしまったのかもしれない。そして、この体勢はいくらなんでもマズいという気持ちでいっぱいいっぱいだった。ゆっくりとギャリーが顔を上げる。そこには、いつもみたく物腰和らげな笑みを浮かべるギャリーはいなかった。…笑っている。笑ってはいるけれど、目が、笑っていない。
「…そんなアタシを挑発するようなこと言っていいの?これでも一応、アタシも男なんだけど?」
声のトーンがいつもより低い。…怖い。初めてギャリーに対して抱いた感情だった。でも、不思議とギャリーから離れたいとは思わなかった。怖いもの見たさ、では無いけれど、私がこのまま抵抗もせずにいたらどうなるのだろう。私を見つめるギャリーの目を、見つめ返す。ギャリーは薄く笑うと、私に顔を近づける。唇同士が、軽く触れた。顔を少し離したギャリーは、感触を確かめるように自身の唇を舐める。凄く妖艶で、…見てはいけないものを見てしまった気がする。怖さと妖艶さが混じりあって、互いの感度を増幅させる。ギャリーが、ふう、と一つ息を吐いた途端にいつものような笑顔を見せる。少し、意地の悪そうな笑顔だったけれど。
「…キス、しちゃったわね」
「…、ギャリー…ッ」
ごめんね、とギャリーは謝ってから私を抱きしめる。彼の匂いが私に移ってしまったんじゃないかと思うくらい長く、ギャリーは私を離さなかった。