▽ story

ニ度目の世界
どういった事の運びなのだろうか、先輩方や渚くん達とお昼を共にする予定が、たまたま全員何かしらの事情で来れなくなったという。結果的にアキ先輩との二人きりになってしまった。いつも遥先輩と真琴先輩の間で静かに笑っている印象しか無かったが、実際に僕と喋った事は数える程しかない。元から口数の多くない(であろう)アキ先輩と、ただの後輩でしか無い僕との間には沈黙が生まれることは必然的だった。こんな時、渚くん一人でいいから居てくれさえすれば何か変わったかもしれない。黙々と何も語らず弁当を食い尽くした僕らの間には、残り僅かな休み時間が残されていた。
「アキ先輩は、遥先輩たちと幼馴染だったんですよ、ね?」
「そうだけど」
沈黙を破りたいという苦し紛れの僕の質問に、アキ先輩は素っ気なく返答をした。一瞬自分が嫌われているのではないかという不安が過るが、どこか遥先輩と似たような雰囲気を纏う彼女の事だ、きっと性格の一つなのであろう。
少し俯いた拍子に眼鏡がずれた。いつも通り人差し指と親指で直す。自分の視線が自分の手で隠れている内に、アキ先輩を横目で見ると、アキ先輩は僕をみていた。それだけで何故だか心がざわつく。落ち着かない。いつも通りの僕ではなくなったかのように鼓動が高まっていく。まるで、スタート台に立って、ホイッスルの音を今か今かと待っている時のように。
この時期の屋上は、少し暑かった。学校一空に近い場所は、水の中とはまた違う心地良さを感じる。しかし僕の頬を掠める風をも割くように僕を見つめる、何も他意のないような真っ直ぐな瞳は僕を動揺させるのに数秒も要しなかった。思わず目線をそらす。
「率直に聞くけど、怜は私に何を聞きたいの?」
言わなきゃ分からない、とアキ先輩は小さな声で付け足した。声は小さくとも、凛とした声はいつも僕の心を掻き乱した。型にはまらない、不安定な事はあまり好きじゃない──だけど、彼女になら良いとさえ思ってしまう。僕の名前を、僕に向かって初めて呼んでくれた──。どうしたらいい。嬉しいと一言で言い尽くし難い感情を、どうやって認めればいい。
「…いえ、聞きたいというか…。時折、少し羨ましくなるんです。先輩同士がお互いの昔を知っているという事が…」
「…寂しいんだね、怜は。分かるよ、うん、分かる」
「え?」
途端、アキ先輩は日陰から飛び出した。まだ夏になりきらないが、コンクリートを灼く太陽の光がアキ先輩を包み込む。一瞬でも目を逸らしたら、見失ってしまいそうな線の細い彼女はまだ、僕を見つめていた。…無意識に、美しいと感じた。その時気づく。僕が間違っていたと。”目を逸らしてはいけない”のではなく、”目が逸らせなかった”。遥先輩より暗い色の髪の毛は、一本一本シルエットを作り出していた。それすらも、美しい。全部全部全部、彼女の全部が。
「…私は確かに遥達を見てきたよ。…だけどね、事実だけなんだよ、私が見ることが出来たのは。遥と凛と…あの人達の世界には私は必要無かったんだよ。ずっと理解したかったんだけど、ね」
「そんなことッ…」
「今の君たちを見てても、ちょっと寂しくなるよ。私も男に生まれて君たちと水泳、やりたかったな」
だから、いつも遥先輩の隣に居たのか。少しでもいいから遥先輩を理解したかったから。
光の中に消えてしまいそうなアキ先輩の手首を手探りで掴む。思っていたよりか細かったそれは、僕の手を余らせた。僕の方──、日陰へと引き寄せた。衝撃がコンクリートの上の粉塵を舞わせる。先輩の小さな身体が着地したのは、僕の足の間だった。髪を巻き込んで、背中をかき抱いていた。接触した部分全てが独立した感覚を持ったかのようだった。その部分部分が心臓を持っているかのように、鼓動をする。血の巡りが早い。
「だったら、僕が必要とします。それじゃ、駄目でしょうか。僕には遥先輩の代わりには──」
「代わりとか言わないでよ、寂しいじゃない」
その日、僕は初めて授業をサボってしまった。
僕の主義も考えも倫理も、全て覆されてもいいと思ってしまったのは、彼女が僕の世界になってしまったからなのだろう。”好き”だなんて生ぬるい言葉で表してしまったら、陳腐すぎて美しくない。この世の中の言葉というものはとても不便だ。僕と彼女の関係を的確に表してくれる言葉など存在しようがないのだから。