Silvia

story

 22/04/20


ひとりずもう

 湿った肌に服が張り付く。シャツを裏返さないように丁寧に肌から剝がす。湿った夏の夜、洗面台に映る私の裸体は青白かった。汗だとか、都会の喧騒だとか、排ガスだとか、色々なしがらみが身体にまとわりついているようで、一刻も早く洗い流してしまいたかった。
電気の切れかかっている浴室で、シャワーの水栓を開ける。手のひらで水を受け止めるが、瞬く間に指の間からはかなく流れ落ちていった。
 …おかしい。何分も経っているというのに、一向に水が温かくならない。給湯器のランプもついているし、設定温度も適切である。故障の二文字が頭を過る。このまま全裸で水を受け止めていても仕方が無いか、と思った矢先、脱衣所に置いてあるスマートフォンが鳴る。画面には、東の名前が表示されていた。一旦水を止めると、バスタブの縁に腰掛ける。尻をひやりとしたプラスチックが撫でた。

「東から連絡してくるなんて珍しいね?」
「あー…今八神たちと飲んでるんだがよ、お前も連れて来いってうるせえんだよ」

 東の声の後ろで、聞きなれた八神さんと海藤さんの声が飛び交っていた。随分と出来上がっているのか、普段より一段と声の大きな海藤さんが「アキちゃん元気かあ!?」と私に問いかける。
 「うーん」と呟いた私の声は浴室に反響する。風呂場の鏡に、踝からふくらはぎにかけて、絶妙な曲線を描いた足が二本映っている。もしこの白い脚が、彼の身体に重なったらどんな映え方をするのだろうか、と邪な考えが脳裏を過ぎる。深い紅色のシャツに、白が重なるコントラストを想像するだけで、どうにかなりそうだ。

「今、私全裸なんだけどさあ」
「は、はあ?」

 素っ頓狂な声が耳に飛んでくる。顔を赤くして、狼狽えている東の顔が目に浮かぶ。
多分、東は私のことを好いては居ない。正確に言えば、苦手な部類だと思っているはずだ。事ある毎に東をからかうのが癖になってしまったが、最早嫌がらせと捉えられても仕方ない。しかし、形よく揃えられた眉毛が、綺麗な八の字になっているを見るのが好きなのだ。肉体的にも強い、極道の男を、一介のしがない年下の会社員の女が翻弄しているという状況に悦を覚えてしまったのだ。東も東で、私を完全に拒絶すればいいものの、中途半端に「止めろ」とだけ言うものだから、それが余計に私を煽ってしょうがないのだ。

「今変なこと考えてたでしょ。いやあ、お風呂入ろうと思ったら給湯器が壊れてるっぽくて、水しか出ないんだよね」
「…んだよ」
「私が誰か男と一緒なんじゃないか、とか思った?」
「……んな訳ねえだろ。中通りの串屋にいる。来るなら来いよ、じゃあな」

 東のぶっきらぼうな態度に、背中を指先でゆっくりとなぞられた時のような、ぞわりとした感覚を覚えた。指の腹が背骨を伝うだけの、もどかしくもある、あの感じに似ている。
 正直、私を夜に誘う男は手に余る程存在している。媚びず、気取らずをモットーとしているものの、逆にそれが男の本能を刺激してしまうのだろう。しかし、そんなのは私にとってはどうでもいい。下半身の欲を隠し切れず、結局は自分を受け入れてくれることに期待し、耳障りの良い言葉を紡ぐだけの人のような形をした何かには興味が無かった。
 
*

「お、来たな」

 入店した私を真っ先に見つけたのは、海藤さんだった。何を飲むかと私に問う。「生ビール頼んでいいですか」と返すと、「おう」と海藤さんは大きな手のひらを肩上まで上げて、店員を呼ぶ。テーブルの上には、手が付けられた料理が所狭しと並んでいた。四人席のテーブル、ぽっかりと空いていた東の対面に座ると、何やら刺々しい視線を浴びる。応えて見つめ返すと、まるで分かっていたかのように私の視線を避けた。

「聞いたぜ?風呂壊れたんだってな。災難じゃねえか」
「そうなんですよ、朝はちゃんとお湯が出てたんですけどね」
「管理会社に言った方がいいんじゃない。多分、すぐに直してくれるはずだから」
「ええ、問い合わせましたよ。明日には対応してくれるみたいです」

 東から聞いたのか、八神さんと海藤さんが私に同情の言葉を寄せる。
 私の目の前にビールのジョッキが置かれる。海藤さんが乾杯を告げると、各々飲みかけのグラスをぶつけ合った。冷やされた液体が喉を刺すかのように流れ込んでいく。胃に到達すると、今度はふつふつと熱されるように、火照った身体に追い打ちをかける。

「しかしよお、今晩はどうするんだ?さすがに真夏つっても冷水はキツイんじゃねえか?」
「そうなんですよね、幸か不幸か明日は休みですし…どこかシャワー浴びれるところでも探しますよ」
「んじゃあ、俺んち来るかあ!?」

 なんてなあ、と語尾に付きそうな勢いで海藤さんは大きな口を開けて笑う。八神さんも「それはどうなの?」と静かに笑った。そんな二人につられて私も口角が上がる。いわゆる、"おじさんのジョーク"として処理をしていたが、一人だけ真顔でウィスキーを口に運ぶ存在に、私は気づいてなかった。

「いや、いやいやいや、いくら海藤の兄貴でもそれは駄目です」

 その瞬間、店内の私たちの座席だけ切り取られたかのように、静寂が押し寄せてくる。八神さんと海藤さんは、目を少し見開き、呆気に取られている。近くに鏡が無いので正確には分からないが、恐らく私も同じ表情をしていたに違いない。
 海藤さんの発言に対し、必要以上に焦りを見せる東の姿に、彼のその発言の背景に気が付かないほど、私たちは鈍くは無かった。
 東は私がいくら何をしようが、─自分を揶揄うことが無ければ─気にも留めないと思っていた。が、しかし、本当はそうでないとしたら。今までの私の"からかい"が、東にとって"煩わしい"以外の感情を持つものだとしたのなら。まるで私の独り相撲なのではないか。意図せずとも、掌で踊っていたのは私の方か。
 睨むような視線も、嫌がるそぶりも、全部好意の裏返しだと気づいた瞬間に、私は腹の底から面白おかしい感情があふれ出てくる。ここで爆笑して、私がとうとう頭のネジが外れてしまったのかと心配されては困る。店内の喫煙ブースに行く旨を伝えると、うつむき加減で肩を震わせた八神さんが「俺も」と私の後ろについた。分煙を推奨されている昨今、肩身の狭い生活を強いられていたが、今回ばかりは救われたかもしれない。

 喫煙ブースには先客は居なかった。先ほどの焦った東の姿がリフレインする。ライターの横車をこする親指が、震えている。そんな私を見かねて、八神さんがタバコを咥えた私の口元に、自身のライターの火を寄せた。

「いやあ、まさか、あの東が、ね」
「俺も、東はアキちゃんが苦手だと思ってたからね」
「こりゃ一本取られましたわ」

 肺を高揚感とニコチンとで満たす。煙を吐き出した後、脱力感が全身を襲った。