Silvia

story


置き忘れた、七番目の部屋に

※とても後味が悪いです

部活が終わり、帰路の途中でチームメイトと別れた後、頬に一つ水滴を受けた。雨か、と思った時には既にジャージに幾つか染みを作り始めた所で、あっという間に走って帰るという考えすら打ち消させるほど雨脚は強くなっていった。本能的に雨宿りが出来そうな場所を探す。周りを見渡して唯一地面が濡れていない、割と大きめの樹の下に潜り込む。樹の外側に面した葉のいくつもの表面を雨粒が伝っては落ちていった。通り雨だとは思うけれど、止む目処は立っていない。ただ単純に、最悪だと思った。朝、雨が降るかもしれないという母親の忠告を素直に聞き入れていればよかった。しかし、今はこうしているしかない。じっとしているのは性に合わない。思わず舌打ちしそうになった時だった。パッと赤い傘が目の前に現れたかと思うと、その傘が反転する。その傘の持ち主は、夏が近いとはいえ、やたらと薄着の女の人だった。

「きみ、傘持ってないの?」

 思わず反射的に「はい」と答えると、明るく髪の毛を染めたその女の人は、肩から下げていたトートバッグの中を漁る。そのうち「はい」と手渡されたのは華奢な彼女に似つかわしくない紺色の折り畳み傘だった。わけもわからないうちにそれを受け取る。

「折り畳み傘、余ってたから。返さなくてもいいけど、返す気があるなら、そこのアパートの前にでも置いておいて」

指差されたすぐ先には、3階建てのアパートがあった。俺達のいる目と鼻の先で、彼女は「じゃあね、」と言うとそのままアパートに入っていく。礼も言えないまま立ち去る彼女の後ろ姿をぼうっと見ていると、2階の端の部屋へと着く。それが彼女の家のようで、その姿を見上げていると、部屋に入る前に俺と一瞬目が合う。にこり、と彼女は笑うと俺に手を降って部屋へと入っていった。

 実質貸してもらったことになる折り畳み傘を開く。仄かに煙草の臭いがした。

*

 あの日の次の日はあれだけの土砂降りがまるで嘘だったかのように晴天だった。いつも通りの朝を迎えたと思いきや、一瞬の出来事でろくに顔も覚えていないあの人が浮かんでくる。そのついでに、そうだ、借りていた傘を返さなければと、夜の内にベランダの屋根の下で乾かしておいた折り畳み傘の存在を思い出した。寝ぼけ眼のままそれを手に取ると、やはりかすかに煙草の臭いがした。
 部活が終わった後、俺は鞄に忍ばせておいた馬鹿丁寧に畳んである折り畳み傘を取り出す。例のアパート、2階の端の部屋のインターホンを押す。しかしながら直ぐの応答がない。しばらく間を置いてインターホンに手を伸ばす、というのを繰り返したが彼女が出てくることは無かった。ただ単に不在なのだろうと、自覚できるほどに肩を落としてしまった自分に苦笑いを禁じ得なかった。
 結局同じことを繰り返すこと2日、彼女の姿を見ることが出来たのが3日めのことだった。その日も半ば諦めながらインターホンを一回押すと、控えめな声で「どちら様ですか」とドア越しから聞こえた。「影山ですけど、」と答えるものの、互いに名前を知らないでいることに気づいて、「此の間傘を借りた」と付け加えた。ガチャリと鍵を外す音がしたかと思うと、そろりと扉は開けられた。

「ああ、君かあ!」
「すんませんした、いきなり来て」
「いいよいいよ、折角だからちょっと散らかってるけど入って」


*

 
 リビングに通されたものの、落ち着かない。そこで俺達は初めて自己紹介をした。彼女は隣の市の大学に通っている大学生で、名前を新藤アキと言った。実家はそう遠くはないが、一人暮らしをしているらしい。紅茶なのはわかるけれど、何の茶葉なのか分からないものを出される。「私の最近のお気に入りなんだ」と彼女は言っていたが、それならそれでいいと俺は思った。ローテーブルの向かいに彼女も腰を落ち着けると、両手で自分のカップを包む。不在だった2日間の事を話すと、申し訳ないような表情をしながら彼女は謝罪の言葉を口にした。

「ごめんね、ちょっと色々ゴタゴタしててさ。ちょうど昨日それが片付いたんだけど、帰ってきたのも日付変わってたくらいで」

 気にしてないという旨を話すと、いくらか安堵したようだった。それから、少し躊躇った後にまた「ごめん」と俺に謝罪をする。その意味が俺に分かるはずがなくて、些か不機嫌な表情に見えたのかもしれない。目線を更に落とすと彼女はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。

「ゴタゴタっていうの、彼氏との別れる別れないの問題でね、一応は片付いたんだけど。かなり束縛が強くて、自分の思い通りにならないと直ぐ怒ったんだよね。自分は何一つ私に与えやしないくせに、私からは散々奪っていったから別れてやろうって思ってさ。結局周りを巻き込む形になっちゃったんだけど」
「そう、すか」
「で、キミに謝らなきゃいけないのは何もくれやしなかったあの人が唯一貸してくれた折り畳み傘をキミに又貸ししちゃったってことかな。ごめんね、縁起の悪いもの貸しちゃって」
「いえ、」

煙草の臭いの理由はそれか、と合点がいった。鞄に入っているそれの存在を思い出すと、返そうかどうか悩む。他人の事情ではあるし、俺が首を突っ込む義理も権利も無いけれど、それを彼女に渡すのが悔しい気がした。それに、そういうナイーブな時期であろうに、これ以上話を掘り下げるのも失礼に当たるのではないだろうかと。でも借り物は借り物だろうと傘を差し出すと、「ありがと」と少し寂しそうな顔をした。
沈黙が場を支配する。何か話題を、と口を開きかけた途端に腹が鳴る。気恥ずかしさに負けて、思わず目を逸らすと、アキさんは笑った。

「待たせちゃったお詫びに何か作るよ。…あまり材料が無いから期待しないで欲しいけど」
「え、あ、いや、そんな気を使わなくても大丈夫っす」
「いいよいいよ育ち盛りでしょ、食べてきなって」

 そう言って立ち上がって、アキさんは台所に立った。俺の座っている直ぐ向かい、調度アキさんの後ろ姿が見て取れる。料理を作り慣れているのか、動作一つ一つに無駄がなかった。ぼうっとその姿を見ていると、彼女の着ているキャミソールの下、アキさんの腕の付け根より内側に薄っすらと痣のような物が見える。どこで、どうやってその痕が付いたのだろうか、それは横に大きく広がっていて、まるで、鬱屈とした翼のように見えた。


俺は何故だかその時、生まれてから今まで感じたことのなかった死の臭いを感じていた。


*


 アキさんは別れ際に「また来てね」と俺に言った。あれから数日経つが、タイミングが分からなくて、未だに顔を出していない。今日にでも手土産を片手にインターホンを鳴らしてみようと思った、そんな朝だった。起床した俺がリビングに行くと、母親が白米を茶碗によそいながら「隣の市で殺人事件ですって、物騒ね。飛雄も気をつけるのよ」と言った。取り留めのない返事をすると、冷蔵庫に向かう。回らない頭でコップに牛乳を注ぐ。母親は「ああ、ほら、これよ」と茶碗と味噌汁を俺の席に置きながら、はテレビに目線を送った。右上のテロップには、赤色の背景に隣の市の名前と、『女子大生殺害か』の文字があった。被害者の名前はもう既に画面から消え去った後だった。

「遺体の傍には紺色の男性物と見られる傘が落ちており……」

 アナウンサーのその言葉に背骨を素手で撫でられる感覚がした。その日の朝食の味を俺は覚えていない。






 その日から俺は少し遠回りをして登下校をした。あのアパートを目に入れるのでさえも躊躇った。あれからアキさんに会ってはいない。俺はしばらくテレビを見るのを止めたし、あの傘の行方は知らないし、果たしてあの現場に落ちていたという傘が煙草臭いかどうかも知らない。