▽ story

狗
気分は過去最高に最悪だった。生ごみ臭さと雨の冷たさで目を覚ましたのは人生初だった。血が行き渡らない頭で思い出せる限りのことを思い出してみようとするが、覚醒と同時に全身の震えが止まらなく、到底それどころではなかった。かろうじて思い出せたのは、昨晩11区で大喰いと言われる喰種と交戦したことだけだった。最終的には半分鬼ごっこのようになり、命からがら出来るだけ遠くへ移動したのだけれど此処が何処だかすらもわからない。電柱に貼ってある住所も視界が悪いのと、目が霞んでいるのとで認識が難しかった。ただ唯一認識できるのは、自分が今寝ているのはクッション性もよく、白い、がここは白いシーツが掛かったベッドの上などではなく、ゴミ捨て場のゴミの上ということだけだ。血が足りないのか、そのうち思考もままならなく、なる。
次に目を覚ましたのは浴槽の中だった。清潔な石鹸の香りと浄水された水の匂いが混じった空気を吸い込む。全身の毛穴から目に見えるように生ごみ臭さが消えていくようだった。しかし 身体が温まっているせいか、打撲の痕が痛む。シンプルな浴室に胸上くらいの高さにある鏡に顔を映してみると、疲労と怪我により死相が浮かんでいるようにも思える。一方で殺傷痕は大したことがなさそうで、致命的だったのは最初に受けたこめかみ辺りに受けた外傷であろう。まだ酷く痛む。
…ここはどこなのだろう。
知らない場所で気づかないうちに全裸になっているという事実に危機を覚えないはずがない。身包み剥がされては防衛手段も限られてくるし、傷ついた赫子も修復に大分時間が掛かりそうだった。…どうせあのままの状態であっても死ぬだけだったのだし、先に死ぬか後に死ぬかの違いだけだろう─。意を決するという程でもないが、少しの緊張を纏いつつ脱衣所へと続く扉を開ける。ひやりとした空気が瞬く間に私を包む。ふと、棚に綺麗に積まれた白いバスタオルが目に入る。生活上での癖なのか、無意識的に胸上から身体を隠すように巻きつける。
薄暗くヒヤリとするコンクリート打ちっぱなしの廊下を抜け、目についたドアを開ける。同じようにコンクリートで包まれた広間一面には多数のマスクが飾られていた。
「(…アトリエ?)」
喰種が捜査官から顔を隠す際に用いられるような機能性のある物も見て取れる。このアトリエの持ち主は喰種に精通する者か、若しくは喰種そのものか。誰が、何の意図で私をここまで運んだのか…。この先私を待っているのは死なのか否か…。
マスクの一つに手を伸ばしてみる。狼をモチーフとしたもので、無機質な中にもどこか生命力があるような精巧な作りだった。触れるか触れないかの際でふと人気を背後に感じ、出来るだけ距離を取ろうと飛び退く。おそらく外に繋がっているであろう扉は私の左後ろにある。運が良ければ逃げられるかもしれない。
「目…、覚ましたんだね」
相手は戦闘態勢をとるでもなく、私との距離を詰めようともしなかった。肌が露出している部分にはタトゥーで飾られている。表情を読み取ろうと顔をあげると、その双眸には赫眼が宿っている。…やはり喰種。警戒心丸出しの私を見て余裕の表情、なのか少し口もとに笑みが宿っている。
「そろそろかな、って思ってお風呂場見に行ったら居なくてびっくりしちゃった」
「そうだ、着ていたものも破損がひどかったから…処分したんだ」
だから、と言って手渡されたのは白いワイシャツだった。その後、下着類は知り合いが買ってくるから待ってて、と別室にあるソファに座らされ、温かい珈琲が入ったカップを手渡される。目まぐるしく変わる状況に文字通り目が回りそうだった。ただ生理現象はこんな時でも関係ないようで、珈琲が今まで以上に美味しく感じるくらいには空腹であったようだ。…生を感じる。生きている。カップから伝わる熱からも、顔を伝う髪の毛から滴る雫のこそばゆさからも感じる、生。
泣きたいわけではないのに、次から次へと涙が生産される。初対面の人の前で泣くという羞恥心と、自分でも把握しきれない安堵と、死ぬ覚悟が覆された今の現状に対しての動揺が入り交じる。
「…怖かったんだね」
その男の人は、私の目の前にしゃがむように座り込んで、私の顔を覗き込みながら、まるで動物をあやすような眼で私が泣き止むのをひたすら待っていた。
*
「昨日、懐かしい夢を見たんです」
「へえ…?」
あんていくのカウンターに二人、並んで座る。平日のランチタイムを過ぎた時間だ、閑古鳥が鳴いているくらいの人の少なさである。人の多いところは得意ではないので正直助かる。目の前では金木くんがトーカさんに小言を言われつつ食器を磨いている。二人を見ていると微笑ましい気持ちになる。逆に、彼らから見る私達はどう映っているのであろうか。ウタさんと並んで居る私は馴染めているのであろうか。私は、彼の隣が落ち着くのだけれど。気の緩みのせいか、頭が冴えない。ウタさんに気づかれないように欠伸を噛み殺す。
「出会った時の、夢です。昨日は余り眠れませんでしたから、半覚醒状態だったのかもしれません」
「…眠いんだね」
ふふ、とウタさんは笑う。
私は日常的に特に何がしたいという物も無いので、それを見かねたのか気分転換にとウタさんは外に連れて行ってくれることがある。本人はマスクのアイディア構築のためと言い、私を見ていると創作意欲が沸くとも言うが、よくわからない。たまにモデルという名のマネキン代わりにもなってみたりもするが、役に立てているのであろうか。
「そうだね…キミを最初見た時は正直死んでいるものと思ったけど」
「その節は申し訳ないと思ってます。けれど御恩は一度足りとも忘れた事は無いです」
「んーん、キミといると楽しいんだ、それで、いいんだよ」
そう幾ばくか背の高い彼に顔を向けると、やたらとにこにことしている。そんなに楽しい話をしたつもりは無い…つもりなのだけれど。
「アキさんは、どうやってウタさんと知り合ったんですか?」
「あー、それ気になってた。ヨモさんも知らないって言うし」
金木くんとトーカさんは少し身を乗り出す。二人から注がれる興味の眼差しが少し痛かった。自分に興味をもってもらうのは嬉しいが、自分の事を話すのは苦手だ。なんと話の切り口を作ればいいのか考えあぐねていると、ウタさんが人差し指を口もとに持っていく。
「ヒミツなんだ、ごめんね」
ぽかんとする二人を尻目に、「ね」と彼は私に微笑む。