▽ story

微睡みとの間
隙間風が、露わになっているアキの肩を撫ぜた。閉じ切ったカーテンからは光は一切漏れず、部屋のいたるところに配置されている電子機器の電源ランプだけが、視界の頼りだった。
深夜の異人町、人通りの少ない路地に面したアパートの外は、木の葉が擦れる音の他は静寂そのものだった。アキの首筋にちくりと針状の物が刺さる。飛んでいきそうな意識を眼下に持っていくと、趙が首筋の薄いところに口づけをしている。痛みの正体は髭かと認識したアキは「跡は付けないで、って言ってるでしょ」と呟くと、趙はバレたと言わんばかりの上目遣いでアキを視界にとらえた。打って変わって趙の胸元が、アキの耳元に近づく。心臓に血が巡った、どくどくと深い心音と短く吐く息がゼロ距離にあるというのに、それにも気が付かないくらいにアキの意識は別の遠くのところに存在していた。ふと"予兆"を感じた次の瞬間に彼女の身体が少し跳ねたかと思うと、脱力感で重力に逆らえなくなり、ベッドに深く沈んだ。続いて趙が下唇を噛み、腰が揺れる。二人分の全体重が預けられたベッドのフレームがぎしりと音を立てた。アキの身体の上に倒れ込んだ趙の心音がやけにうるさいことを、その時アキは知る。真冬だというのにも関わらず、皮膚の表面にいくつもの汗の玉が出来ている。密着している肌と肌の間では、もはやどちらの物か分からなくなっていた。
*
「それ吸ったら帰ってね」
乱れた髪の毛に指を通しながら、ぶっきらぼうに言う。目線は趙に無く、スマートフォンの光が青白い顔を部屋の中に浮かび上がらせていた。掛け布団を胸元まで引き寄せて暖を取るが、冷え切った汗がそれよりも早く体温を奪っていく。趙はアキにバレないよう、煙草を吸う深度を浅くした。それでも、巻紙は火に少しずつ浸食されていく。
「シャワーくらい浴びさせてくれてもいいんじゃない?」
ニッと口の端を片方に寄せて笑って見せるも虚無的なそれにしかならず、アキが自身を見ていないことをこれ幸いとして、直ぐに元に戻す。綺麗に整頓されたローテーブルの灰皿周りに灰が散っている。次の朝には何事も無かったように、綺麗に拭かれているのだろう。アキはスマートフォンの画面を消灯させると、再び部屋は元の暗闇に戻された。ポツリと灯されている煙草の火から昇る紫煙が、暗闇と入り混じる様をアキはぼんやりと見つめていた。
「まあ、風邪引かれて一番に心配されても困るし、そのくらいはいいけどさ」
「ありがたいね」
布団の蓑から這い出たアキが、趙の隣に腰掛けると慣れた手つきで煙草に火を灯す。微かな光が男のそれとは違う丸みを縁取っている。メンソールの清涼感が、頭の中の霞を取り払っていく。「ひと運動後の煙草が一番美味いわ」とアキが呟くと、趙は「わかる気がするよ」と返した。
元とは言え、横浜流氓の長であるような人間であっても、人間は人間であるのだとアキは一つ感心していた。世俗的な情事に関わる当事者として、単に"仲間"であるだけの姿とは画した本能的なそれは二人の間だけの秘密である。一番たちと居る間は互いに不自然ではないくらいの距離感を保ち、周りの目が途切れた瞬間に本能を曝け出す仲というのは、スリルを二人に与えた。
「最初はアキちゃん、割とドライな方かと思ってたけど実はそうでもないよね」
「性欲なんて誰にでもあるでしょ、何もおかしい話じゃない」
「んー、いやそっちじゃなくてさ」
趙は吸い殻を灰皿の端にやり、新しい一本に火をつける。何か言いたげなアキの視線をわざと抜け、口内に新鮮味の無い煙を迎えた。
何が違うのだろうかとアキは睫毛を戦がした。突拍子が無いように見えて、意外にも含蓄のある話をする趙の口からは、次に何が発せられるのだろうかと好奇心と恐れが入り混じる。飄々とした物言いとは裏腹に、自身の核心―それも弱みに近い部分―を突かれる時がある。そうすると、自身だけに留めていた秘密の一部を手に取られたという焦燥感と、自身を理解してくれているのではないかという期待でいよいよ頭が可笑しくなりそうだった。しかし、彼女の本音としては内臓を見られる以上の羞恥心も相まって、"全てを曝け出しても良いのではないか"という根拠の無い思惑が浮かんでくるのを止めたい。更に、生まれもった意固地と、どうも人を信用しきれない性分が歯止めを掛ける。それが故に、趙に対して身体の交わり以上の"許し"を与えなかった。
脚を立て、むくんだ足の親指と人差し指を交差させると、ぬめりとした湿度を感じた。極まりが悪く、今のところの拠り所は心もとない煙草一本だった。
「言葉は強いんだけどさ、案外顔に出てるんだよ?気づいてた?」
「知ったようにして物言う男は嫌い」
「それそれ。"帰って"も"嫌い"も言ってることと表情が合ってないんだよねえ」
心臓の表側を優しく撫でられたかのようなぞくぞくとするそれに、早々にアキは白旗を上げそうになる。プライドの薄皮を一枚一枚丁寧に剥いていくような声色に、すでに全てを曝け出すまでにそう時間はかからないことを覚悟した。
それでも無言を貫くアキに、趙は冷えている彼女の膝のてっぺんに左手を置く。優しく自身の方に傾けさせると、反対の膝も同時にこちらに向く。重心が移動し、趙の胸元に頭を預ける形となる。趙はアキの右から後ろを回り込んで体を滑らせ、抱き込む形を取った。先ほどとは違い、理性が働いている今、こうも身体が密着している状況に何も感じられない程アキは鈍っていなかった。
「まあ、今のところそんな顔を見せてくれるの俺だけみたいだし、ちょっと春日君よりリード取ってるかなって思っちゃうんだけど」
「なんでそこで一番が出てくるの」
「だって仲良さげじゃん。たまに二人でどっか行っちゃうしさあ。気にならないほどアキちゃんに興味無いわけじゃないの。それにさ、俺だってこんなこと誰にでもするわけじゃないよ」
「甘い事言うだけの女泣かせ男の常套句じゃん、それ」
ふふ、とアキが笑うと趙もつられて笑う。フィルターまで火が回っているアキの煙草を取り上げ、自分が手にしているものとまとめて灰皿に押し込む。文字通り手持ち無沙汰のアキの指に、乾いた指を絡ませる。―酸いも甘いもこの人と居れば、少しは心強いかもしれない―と薄皮の最後の一枚がはがれかける。ここで好意の一つでも伝えてやれば、もしかしたら趙も返してくれるかもしれない。と思うと同時に、隠れていた懐疑心が顔を出す。"ただの言葉遊びで弄んでるだけだとしたら"と。仲間としては信頼のおける人物であろうとも、愛だの恋だのに限ってはそう簡単に何もかもの具合が良くなるとは限らない。慎重に言葉を選ぶ必要があると考えたが、趙の見透かしたそれに今更どうにもならないかという諦めがあることもまた事実である。
口を噤んでしまったアキに、子供をあやすかのように趙は語りかける。
「まあ、俺がこんな事言うのにも理由はあるんだよ?アキちゃんは気づかないフリしてたかもしれないけど、俺さ…」
「あ、いや、ちょっと待って」
「いやいやいや、この状況でちょっと待ってはナシじゃない?何、言わせてくれないほど俺が嫌なの?」
先ほどまで二人の間にあった、細い糸のような緊張感は既に切られていた。明らか様に肩を落とした趙の正面へと向き直る。正座で肩を強張らせて俯くアキに、趙はそれ以上何も言えないでいた。耳の付け根から耳朶の先までも満遍なく朱く染めている様を見ると、思わずそれに触れたくなる欲が生まれたが、話の腰を折ってはいけないと己を律した。
「趙が嫌だとか嫌いだとかじゃない。私は何でも器用にこなせる人間でないから、…青木の一件が終わるまで待ってほしい。それまではいつもの"仲間"として付き合ってほしい。終わったら…必ずちゃんと聞くから」
言い終えてくしゃりと前髪を指で握ると、どっと汗が背中からわき出した感覚がした。嘘偽りは無いつもりで言葉を紡いだ"つもり"ではあるが、趙にどう捉えられているかが彼女の不安を煽った。また、相手の目を見て自身の思いの丈を伝えられる無いほどに、年の割に誰かと一対一で向き合うような経験に乏しかった。それでも筋は通さねばならぬと、自身を優しく見つめる瞳に応える。サングラス越しでない裸のそれに、目を背けてしまいそうになる。膝の上に置いたこぶしを強く握ると、爪が掌に刺さる。
「そっか、りょーかい。お預け状態なのはちょっとじれったいけどね」
趙はそれ以上何も言わず、アキの固く結んだ拳を解くように手に取る。先約だと言わんばかりに左手の薬指に唇を落とした。
あと数時間もすれば夜が明ける。木の葉の擦れる音など、紛れてしまう程にノイズが目を覚ます。都会の空にも時折伺える燦爛とした星の空は、陽が故に隠れる。二人は月が沈むのを惜しみながら、身体を寄せ合いながら瞼を閉じた。