Silvia

story

 22/06/23


煙る

  琥珀色の液体が波打ち、透き通った球体の氷が入ったグラスに注がれる。節が隆起しているマスターの手元をぼんやりと観察しているうちに、グラスが目の前に差し出される。今日は何杯飲んでいるか数えてすらいない。最初こそは調子が良かったものの、鼻から抜けるアルコール臭が強くなってきたことに気付かずにはいられなかった。紗栄子ほどではないが、酒に強いと自負していた身としては、残念な気持ちだ。

「程々にしておけよ、と言っても聞かねえんだろうが」
「いやね、マスターの入れるウィスキーが美味しくて何杯もいけちゃうから。と言っても角瓶だけど」
「いいじゃねえか、安くて美味え…日本の技術の集大成だ」
「確かに」

 マスターの方を見上げると、実に穏やかな目線を私に向ける。マスターに妻子がいるという話も聞いたことがないし、私も独り身ではあるが、きっと親が子に向ける目というのはこのように穏やかなのだろう。私も、きっと所謂ステレオタイプな“普通の人生“というものを歩んでいたのならば、この場所には存在しなかったのかもしれない。運び屋として活動していることに後悔も、不満も何もないが、自分が手に入らなそうなモノに対して興味を持ってしまうのは私の性なのである。
 不意に横から手が伸びる。趙が「俺にもおかわり頂戴」とマスターにグラスを差し出す。3回りほど小さくなった氷が、カラン、と音を立てた。

「アキちゃんてさあ、あまり自分のこと話さないよね」
「そう?趙も大概でしょ」
「ふーん、そういう事言うんだ?春日君とはお話ししてるんでしょ、寂しいなあ」
「それもお互い様なんじゃない」

 店内の照明が、趙のサングラスに反射して、ガラスの奥にある瞳までは観察できなかった。横浜流氓の元総帥を前に、自然と肩に力が入ってしまう。先程とは打って変わって、これは運び屋としての性である。アンダーグラウンドを生きる人に対して商売をしている身としては、いつ自分が切り込まれてもおかしくないからだ。一番たちと行動するようになってから、(ここにいる人達に対しては)そのような用心も不要だと頭では分かっているものの、染み付いた癖を直そうとしても難しい話である。私にとっては、就寝前にトイレに寄るというルーチンと同じくらい染み付いた癖だ。

「それはアキちゃんも寂しいって思ってくれてるってこと?」

 趙は少し首を傾げ、口元に笑みを浮かべる。“どうやってコイツの本心を引き出してやろうか“という思惑が滲み出ている。恐らく、隠す気も無いくらいに、私という人物に興味を持っているということだろうか。しかし、こうもあからさまに態度に出されると反抗もしてみたくなる。「さあね」と短く返すと、「つれないなあ」と趙は並々に注がれたウィスキーを半分ほど空にした。
 突如、左肩に衝撃が走る。思わず振り返ると、足立さんが私にぶつかってきたようだった。随分と千鳥足のようだが、その体格の良さも相まって随分な重みを感じた。「悪い悪い」と半ば呂律も怪しい。足立さんの向かいには同じく千鳥足のナンバが浮かれ気味に、何故か炭酸水のペットボトルを振り、飲み口を足立さんに向けている。私はこの一瞬でナンバが何をしようとしているかを把握した。まずい、と思うと同時にナンバの陽気な声が店内に響く。

「シャンパン入りました〜」

 勢いよく噴射された水を頭から被る。水分の大半は、シャツが吸い込んだものの、首筋に残った炭酸が仄かに弾けている。どうやら流石の身のこなしで足立は避けたらしく、無傷のまま立ち尽くしている。静まった店内を見渡さずとも、“やってしまった“という雰囲気が支配しているのを感じた。

「あーあ、やってくれたね」

 趙の方を向くと、整髪料で整えられた髪の毛が少し解れ、毛先から雫が垂れているのに気がつく。ナンバが慌てて「す、すまん」と私と趙の前で手を合わせて謝る。「ほら、止めなって言ったじゃない!」と紗栄子が持ち合わせのおしぼりで私の髪の毛を拭く。爪先が彩られた、滑らかな線を描いた指が私の髪の毛を梳いていく。隣では、一番が趙のライダースを拭いていた。

「…ナンバ、貸し一つだからね」
「本当すまねえ…足立さんが避けなけりゃ大丈夫なはずだったんだ…」
「俺のせいかよ!?」

 怒髪、天を衝くような形相になってなければいいが、とマスターを見上げると、私からやや視線を逸らす。「その…なんだ、着替えにでも行ってこい」と言う真意に、私の今の格好が気づかせてくれる。シャツがものの見事に透けている。私が純真無垢な男も知らない、漫画に出てくるようなヒロインであれば、悲鳴の一つも聞かせたのだろう。しかし、生憎それなりに生死を掻い潜ってきただけあって、動じないものだと変に感心した。

「着替えてきまーす」

 バーチェアから腰を上げると、革と密着していた面が空気と触れ、水分を含んだ布が肌に張り付く。謝り倒すナンバを尻目に、私はサバイバーの二階へと上がった。

*

「まさに水も滴るいいオンナ、って感じ?」

 指先を払い、水分を飛ばしながら趙が言う。私が着替えると言ったのに、この男は別々に着替えると言った概念が無いらしい。ライダースを脱いだ趙の身体は、肌に張り付いたシャツが線を縁取らせている。伊達に鍛え抜かれていないだろう、筋肉の隆起は目を見張るものがある。

「炭酸水ぶっかけられて滴ってもね。雨に降られるならまだしも、ムードが足りないかな」

 私は、自身のシャツのボタンを一つずつ開けていく。今更、異性に裸を見られてどうという事もない。2階に上がる趙を誰も止めなかったと言うことは、私と趙の間柄が仲間以上になるとも考えられていないのだろう。私も趙も、節操をどこかに忘れた若者でもあるまい。
 脱いだズボンのポケットから、タバコの箱が転がり落ちる。どうやら、こいつだけは無事だったらしい。手持ちはラスト一箱、濡れて湿気ってしまう方が私を意気消沈させてしまうだろう。
なんとなく、一本に火をつける。煙が蛍光灯に照らされ、霧のように白く視界を霞ませた。少しばかり部屋の窓を開け、煙の逃げ道を作る。

「趙、その辺にタオル無い?」

 シンクで濡れたシャツを絞る趙に問う。何にも隠されていないその上半身には、元の皮膚の色と、再生された皮膚の色が異なるのがはっきりと分かるくらいの傷跡がある。横浜流氓の総帥であったが故のものなのだろう。筋肉が動くのに合わせ、その上に乗る皮膚も動く。まるで、傷跡が何かの生き物にさえ見えてくる。
「無いねえ、」と趙は絞り終えたシャツをハンガーにかけ、カーテンレールに吊るした。

「…誰かがタオル持ってきてくれるまで下着で居ろって?」
「寒いよね、暖めてあげよっか。丁度布団もあるし」
「馬鹿言え。まあ、吸い終わったら誰か呼ぶかな」

 趙は床に放り出された私のタバコの箱から、一本取り出す。手に握りしめたままのライターで火をつけてやる。趙の形の良い唇の端が少しだけ上がった。窓の下、肌を冷たい風が撫でていく。趙と二人揃って壁に背を預けて座る。微かに密着した腕からは、ざらりとした感触が伝わる。

「…てっきり、追い出されるものだと思ってたんだけどね」
「“なんで着替えてるところに入ってくるのよ“って?」
「そうそう、それにアキちゃん、割と人と壁作ってるように見えたから。春日君には多少、心を開いてるみたいだけど」

 趙が私の顔を覗き込んでくる。口内に残った煙が、僅かに趙の口から漏れた。

「そんな大層なもんじゃないよ。今まで一人でいた期間が長かったから…多分、どう距離を取ったらいいのか分からないんだと思うよ」

 私以外のメンバーは、どこかのコミュニティの一員として、生活を送っていた。一番なら荒川組、紗栄子ならキャバクラのメンバーとして。家族としての単位でのコミュニティですら崩壊していた私の生活上、特定の他人と共に居る経験が殆ど無い。それが唐突に今まで関わりが無かった人々と行動を共にしたものだから、戸惑っていると言うのが本音だ。上手く立ち回れているつもりではいたが、“人を観る立場“にある人間に対しては筒抜けらしい。恐らく、ハンあたりにも私の壁とやらは見えているのだろう。

「それなら逆に燃えちゃうね」

 趙が触れた腕の面積を増やす。不快にならない程度の重さが、こちらへ移ってくる。趙が息をする度に、膨張と伸縮を繰り返す肺の動きまで、分かる。香水でも付けているのだろうか、その香りは薄いながらも、私の嗅覚を刺激する。
 何が、と問おうとするその瞬間、小気味良いリズムでこちらへと続く階段を昇る音が聞こえる。気の利く誰かが、タオルでも持ってきてくれたのだろうか。そっと開けられたドアから覗くのは、目をまん丸に見開いた紗栄子だった。

「…事後?」
「ヤってないわ」

 「どう見てもそうとしか見えないわよ」と呆れ顔を見せる紗栄子にタオルを手渡される。趙から離れると、彼の熱を惜しがる私の腕が、再び冬の夜風に晒された。