Silvia

story

 23/08/30


淵にて

 峯さんは大体一週間に1、2度の頻度で私の家に来る。仕事が忙しいのか、決まって深夜に訪問して来た。私としても深夜の作業の方が捗るので助かっていた。どうも最近は集中出来る環境に身を置いているせいか、時間感覚が無くなる。気がつけば筆を持ったまま朝方に寝落ちてしまい、夕方前くらいにハッと目を覚ますことがあるくらいだ。

 ここに暮らし始めてから彼が最初に訪れた時に、慣れない手つきでコーヒーを淹れると、少し眉間の皺を増やしながらカップに口を付けた。美味しいのか不味いのか判断は出来なかったが、それから彼が訪れる時のお決まりになっていった。特に会話をするわけでもなく、ただ彼はキャンパスの前に座る私の隣に腰を下ろして、キャンパスが色づくのを見ている。彼が体重を預ける、背もたれもない安い木のスツールは、峯さんが座ると高級なものにさえ思えた。
 彼が訪れるようになって、無言で手元を見つめられるのにも次第に慣れてきた頃に、彼について少し分かったことがある。時折彼は独り言なのか、私に喋りかけているのか分からないが、ぽつりぽつりと呟くように話す事がある。その中の一つで分かったことが、どうやら“大吾さん“という人物に心を許しているということだった。「君の絵を大吾さんに見せた。あの方も褒めていた」と私に零した際、あの仏頂面が緩んだのだ。その大吾さんが何者かまでは分からなかったが、普段にこりともしない彼にこのような表情をさせるなんてと驚いたものだ。
 3月を目前にした2月の後半、この生活が始まってから3ヶ月程経った頃だっただろうか。その日も同じように、私が淹れたコーヒーのカップを手に隣に腰を下ろした。描きかけの朽ちた廃墟の絵を峯さんが見て「君の孤独は才能だな」と呟いた。思わず筆を止め、彼の顔を久しぶりに伺う。彼の横顔は最初に出会ったあの日と変わらず美しかったが、彼は自身の内に潜める何かに憂うような表情をしていた。
…私は何か大きな勘違いをしていたのかもしれない。ぽっと出の名前も分からないような女の作品に大枚を叩く程の高級取りで、部下もいるような社会的地位にいるような男だと思っていた。だからと言って、本人が満たされているとは限らないのだと。その原因は分からないし、きっと私との関係性上、それを口にするとも思えなかった。私が長年触れて来なかった人間の内面と言うものに正直戸惑う。いつからだっただろうか、とりわけ印象に残ったきっかけを覚えているわけではないけれど、他人と一線を引いた生活をしていたらこのザマである。私がもし気の利く大人であるのならば、峯さんの憂いの少しでも理解が出来たのかもしれない。しかし、気の利く大人であったのならば峯さんと出会えていたかさえ怪しい。たられば論を語ればキリがないが、現状は変わらない。ただ、何事も無かったように再び筆を動かし始めることしか出来なかった。
 

 それから間も無くして3月を迎えると、峯さんが来訪することは無くなった。常備していたコーヒー粉も減りが遅くなったのを感じた頃、単に“彼の仕事がより忙しくなったのだろう“と気軽に構えていた私が愚かであったことを一本の電話で知ることになる。電話の相手は峯さんの秘書の女性だった。彼女は冷静を装いながらも、憔悴したような声で私に告げた。
「会長が亡くなりました」と。




――あの日、峯さんの訃報を聞いた後、今まで感じたことのない感覚が私を襲った。腹の底から何かが湧き、胃が急激に収縮する感覚。それが今では喪失感という感情だと言うことは理解している。ただ、当時の私はわけも分からず、事実を事実として受け入れられないまま筆を手に取った。忘れてしまう前に、自分の記憶の断面をすべてかき集めて、形にしたかったのだ。私が見た、峯義孝という人物の姿を。
我に返った時には、既に3日が経っていた。いつもはカーテンの隙間から溢れる朝日が、妙に暗かったのを覚えている。もつれそうになる脚を窓際に運ぶと、厚い雲が空にかかっているのに気がつく。今にも雨が降り出しそうであった。窓際のカフェテーブルに目線を移すと、最後に私が飲んだまま放置されているコーヒーカップがあった。そういえば、この3日間は飲まず食わず、はたまた寝ずに作業をしていたのだろうか。それすら記憶にない程に一心不乱状態だったのだろう。背骨の軋む感覚を鑑みれば、もしかしたら座ったまま寝ていたのかもしれない。
 コーヒーカップをキッチンへと運ぶ。濃い茶色が縁取った染みがこすっても取れない。途中で諦め、コーヒーメーカーがコーヒーを淹れ終わるのを待った。コポコポと抽出される音が、とても静寂な室内に響いた。ぼんやりとした頭で、かの人を思い出す。私の描いた絵を見つめながら、どこか遠くを思う様を作品に打ち込んだつもりだった。何に思いを馳せていたのだろうか。聞く機会も、聞けるような関係性にもならずに彼は居なくなってしまった。私にとって、彼にとって互いにどんな存在だったのかを今更ながら考えるが、友達でもなければ話し相手でも無かったと思う。ただ、私達の間には暗黙の共通認識があったのかもしれない。その答えは"孤独"。私たちは孤独を抱いたまま、隣に並んでいたのだろう。"1"と"1"の間に正の符号が無い以上、私たちは孤立した"1"にしか過ぎない。「寂しい絵」を見る彼の表情と、私の孤独が才能だと評したある意味での羨望が彼の孤独を理由づけた。
 次に、あの絵は何処へ行くべきなのだろうと考えた。誰の手元に置いておけば、せめてもの弔いになるのだろうかと。数少ない会話の中にキーワードがあるのではないかと、必死に記憶をたどる。…"大吾さん"という人物はどうだろうか。私が見た限りでは、多少なりとも心を寄せていたように感じていた。…"大吾さん"にあの絵を託そう。しかし、名前だけを知っていても当人を見つけ出すのは難しい。さてどうしたものかと考えつつ、コーヒーメーカーからカップへと液体を移す。最後の一滴が落ちた瞬間を見計らったように、インターホンが鳴った。
 ドアの前に立っていたのは、峯さんと出会った日に彼と同行していた部下の男性だった。何か月ぶりかに見たその姿は、とても元気とは言えないやつれた姿だった。部下の男性は、ここ何日か訪問をしていたが私が一切応答しなかった事に対し、意外にも心配をしていたという。この男性なら、私より峯さんを知っているかもしれないと踏んだ。

「あの、大吾さんという方って知ってますか?どこにいるか知りたいんですけど」
「大吾…、堂島会長のことでしょうか」
「多分…」

  私の微妙な顔が面白かったのか、強張っていた顔が少し解けたようだった。しかし、そんな簡単には欲しい答えが貰えはしなかった。どうやら、堂島さんとやらはどこぞの重鎮らしく居場所を外部に伝えることを禁じられているという。話しぶりからして、この男性が堂島さんの居場所を知っているのは確からしいが、私は到底それを教えてもらえるような立場ではないみたいだ。

「何か堂島会長に御用が?」

 問われたと同時に、はっと気づく。そうか、あれを渡してくれるよう頼めばいいのかと。
私はどうも他人に対して何かを期待するということに不慣れであるらしい。峯さんに関わってからというもの、自身に気が付くことが多いと感じる。育った環境のせいだろうか、何かを誰かに頼むという思考が抜け落ちていた。親に何かを強請ろうものなら一言目で却下をされてきた人生が、こうも思考の幅を狭めるとは。峯さんの事だってそうだ。明確な自身の意思表示をしないまま、現在に至るのだ。絵を描くこと以外に何かをしたいと他人に意思表示をするのは久しぶりで、何と切り出せばいいのか分からない。分からないなりに、部下の男性をアトリエへと招いた。「あの絵を堂島さんに渡してくれませんか」と、指さす。キャンバスに映る峯さんの姿をしばらく凝視した後、男性は少し悲し気な顔をして「やってはみます」とだけ答えた。





「君の孤独は絵を描く上での才能だねえ」

 彼はロマンスグレーの髭を人差し指と親指で挟むように撫でながら、一つの絵を前にして呟いた。彼は懇意にしてくれている画商である。峯さんの遺品がどのような経路を辿ったかまでは分からないが、私の作品がこの男性に辿り着いたようで、今回開催された展示会に出展してみないかと言う打診が来たのだ。
画商の彼は目じりにいくつもの皴をより深く刻む。

「…昔、同じようなことを言った人がいます」
「そうかい」

 あの絵が結局、堂島さんの手元に届いたかどうかは分からず仕舞いだった。何か一報くらいあるだろうと思っていたものの、待てど暮らせど何一つ私に情報は降りてこなかった。結局あれから半年ほど経ち、めっきりと峯さんの関係者との関わりは無くなり、一人黙々と絵を描いている日々を送っている。
 そういえば、と何かを思い出したかのように画商は髭を撫でる手を止める。「君の絵を買ってくださった方がいるから、挨拶をして来なさい」と告げた。絵が売れたという事実が嬉しいと思う反面、また私の絵に共感を持つような人物がいる事に少し驚く。
他人の幸福度など、測り得ない事象の一つである。所詮幸福か不幸かなど、自分の視点で評価した気持ちの満ち足りようであるのではないだろうか。自分にとっては、それを理解したところで不幸だと思うことの根拠となる寂しさや孤独が埋まるわけではないが。メディアが映す人々や、街中を歩く男女…私にとっては幸せそうに見えたけれど、やはり見かけだけのもので他人が持つ影の部分を推し量るのは難しいのかもしれない。
 一枚の絵を正面にして、黒いスーツを身に纏った男性が立っていた。峯さんと同年代くらいだろうか。標準的な男性よりは幾ばくかしっかりとした身体付きに、眉間に深く刻まれた皺からは苦労が垣間見える。彼の以前の姿がどうだったかまでは知らないが、体格の割には頬が少し痩けているように思える。しかし、私に気づいたその瞳はしっかりと真っ直ぐこちらを見据えている。一瞬で、この人が「普通」の人では無いと悟った。

「この度は、私の絵をご購入してくださったようで…その、ありがとうございました」

浅く腰を折り、お辞儀をする。地面を敷き詰めている白いタイルが視界いっぱいに広がった。

「あなたが新藤さんですか。俺に、峯の絵をくれた…」

 「峯」という人名にハッと顔を上げると、その人は眉間の皺を緩め、眉尻を下げた。そうか、彼が峯さんの言う堂島大吾さんかと。聞こえたか定かではないくらいの小さな声で「はい」と答えると、彼は「そうか…」と言ったきり、口を噤んでしまった。
結局は、あの絵がちゃんと堂島さんの手元に届いていたという。私はとにもかくにも渡すことに頭が支配されていて、絵を見た堂島さんが何を思うかなど少しも考えていなかった。故人の絵を贈られて嬉しいと思うか、悲しみが増さるか、はたまた怒りが湧くか。そう考えると、今この場面で怒鳴られても致し方ない。私が勝手にしたことだし、自分の責任は自分で取るくらいの甲斐性はある。

「峯は…あんな寂しそうな顔、してたんだな」

 ふと、堂島さんは目の前の絵に視線を戻した。その横顔が、いつか見た峯さんのものと重なる。同じ"寂しい"表情は峯さんのものと似ているようで異なっていた。今の私には分かる。孤独から来るものではないということを。
 絵のタイトルの隣には売約済みを示す赤いシールが貼られている。正真正銘、私が描いたものだった。
もし、自身がコップの淵に立たされていた時、コップの厚みが人と人との繋がりによって増すものだとすれば、私も峯さんもきっと、薄い淵の際を歩いて生きていたのだろう。少しでも重心がブレれてしまえば、すぐそこには奈落が待っている。そんな絵だった。タイトルは"淵にて"。数秒経ったか数分経ったのか実際には分からないが、暫くの間堂島さんとその絵を見つめ続けた。