▽ story

淵にて
車のエンジン音が止まる。ホテルの前に到着したようだった。ライトが煌びやかに灯されており、私の視界を阻む。良くわからないまま、車から降りるようにと峯さんが指示を出す。質素な恰好の私が一人で、エントランス前にさえ立てるか怪しい程のグレードのホテルだった。臆することなくフロントへと向かう、峯さんの背後に隠れるようにして私も後に続いた。ホテルマンは場にそぐわないであろう私に対しても、特に顔を顰める訳でもなく、顔に笑顔を貼り付ける。それが仕事だと理解はしているが、なんとなく感じる胡散臭さが鼻についた。
フロントと二、三言会話を交わし、ルームキーを手にした峯さんが私の方へと振り向く。そのキーを私に手渡すと、相も変わらず抑揚の無い声で「明日の11時、迎えを寄こします。それまでここで休んでいてください」、と私に伝える。峯さんが私をこれからどう扱うのか、考えが全く分からなかった。彼は特に私に笑顔を見せて安心させるわけでもなく、"今日のところはこれで用が済んだ"とでも言わんばかりに背を向け、ホテルを出ていく。
鍵に刻印された番号の部屋へたどり着く。慣れない手つきで開錠し、ドアを開ける。ドアを開けた先は、明らか一人では手に余るほどの広さの部屋だった。モダンな色合いを基調とし、間接照明の明るさが落とされた"雰囲気"のある部屋。自分が場違いであることには、もう既に慣れてしまった。せめて身は綺麗にしようと、シャワーを浴びることにした。何個か扉を開け、見つけたバスルームは脱衣所との隔たりがガラス戸だった。何もかもが落ち着かない。熱めのシャワーを頭から被ると、収縮していた血管がじわじわと広がっていく。血行が良くなったのか、指先が少し痛む。何故か鼻の付け根あたりが、ツンとした。無意識に緊張していたのが、一人になって解けた反動なのだろう。一種のストレス反応なのだと頭では理解しているものの、涙はシャワーと共に排水溝に流れていった。
ベッドルームには、キングサイズのベッドが鎮座していた。どうにも広いスペースに寝るというのには落ち着かなく、ベッドの隣に置いてあるカウチソファに身を委ねる。
一日をこんなにも長く感じたことはあっただろうか。今日の朝から僅か時計の短針が、一回りと少し進んだだけの時間に出来事が多すぎたのだ。生家を追い出されて一日が始まり、素性の分からない男性に拾われて一日が終わる。今日がこれなら、明日はどんな一日になってしまうのだろうか。もしかしたら、外国にでも売り飛ばされてしまうのかもしれない。そのくらい、屋根の下で眠れるというこの現状は私にとって虫のいい話なのだ。
眠りと覚醒の狭間で、現実味の無いことを考えてしまう。もしかしたら、今日一日の出来事も全て夢だったのでは無いかと。夢だったら良かったのに、と。
*
寝起きは最悪だった。客室の電話がけたたましく鳴る音で飛び起き、何事だと反射的に受話器を取る。品の良さそうな女性の声で、「11時に峯様とお待ち合わせのようですが」と切り出された際には心臓が縮み上がった。普段絵を描く事に熱中している都合上、昼夜逆転生活を送っていたのが祟ったとすら思い心臓の鼓動が早くなる。しかし、電話先の女性は続ける。
「峯様から新藤様を9時に起こすよう仰せ使っておりました」
と。壁掛け時計は確かに午前9時を指している。人が寝坊するのを見越して、モーニングコールを頼んでいた峯さんは何者なのだろうか。二度寝する訳にも行かず、身支度をと思った矢先にインターホンが鳴る。今度はなんだ、とドアを開けるとホテルマンが紙袋を片手にして立っている。「峯様から新藤様にお渡しするようにと」と受け取ったその中身は、衣類だった。なるほど、峯さんもさすがにパーカーとジーンズ、スニーカー姿には思うところがあったようだ。包みから出し、それを広げると淡いブラウンのニットワンピースが現れた。シンプルなデザインではあるが、生地の手触りは安物のそれではないことが伺える。タグに刺繍されたブランド名を見ても、ピンと来ないが。
袖に腕を通す。スカートなど、高校の制服で着用した以来だ。同梱されていたブーツも、ワンピースと同様にサイズが合っている。最早手の回し方が"怖い"を通り越して感心する。
彼の不可解な意図を汲み取れないまま、時刻は11時を回ろうとしている。ラウンジで嗜んでいたホットコーヒーも、カップの底を縁取るようにして枯れていた。鬼が出るか蛇が出るか…、もう私には引き返すアテもない。目線をラウンジの入り口へと向けると、昨晩の部下の男性がこちらに歩み寄って来るのが見えた。そこに峯さんの姿は無い。
「新藤様、お迎えに上がりました」
仰々しく男性は私に頭を下げる。浅く会釈をすると、男性は周りを気にしてか口には出さず“着いてこい“と言わんばかりの目線を私にやった。
着いて行った先には、昨日とは異なりセダン車がホテル前に停められていた。水垢一つない磨き上げられたその車に乗り込むと、むせ返るような芳香剤の匂いが鼻をついた。
車はスーツを纏う男女が忙しなく歩を運ぶビジネス街を走る。私が選択しなかった人生を進む人の姿は異形のものに思えた。"立派な社会人"、"立派な大人"―、そう見える風貌の人々に恐れをなしてしまうのは、きっと私が"立派"になり得なかったという卑屈さが原因だろうか。車が地下駐車場に進み、視界が街並みから途切れたところで私の思考も落ち着いた。
車から降車し、部下の男性に連れられるまま辿り着いたのは、整頓されたオフィスだった。私には実際の価格は想像もつかないが、高そうな飾り壺等の調度品が目に付く。ソファに座るように促されると、それに体重を預けた。聡明そうな眼鏡を掛けた女性が、目の前のローテーブルにコーヒーカップを差し出す。乾燥している鼻の中を芳醇な香りが充満した。ビジネスマナーという言葉が頭を過った。どこかで、出された飲み物には口を付けないのが正しいと見かけたことがある。私が客であることには間違いが無いが、さてこの状況はビジネスなのかと問われれば難しい。なにせ峯さんとの関係が未だ分からずにいるのだから。ティーカップを持ち上げ、口元に寄せる。舌先に乗る程度口に含むと、コクと酸味がバランス良く口の中に広がる。普段口にしているコーヒーとは全くの別物と言ってもいいくらいだ。
「会長はもう少しで見えると思います。それまでお待ちください」
彼女は秘書なのだろうか。"会長"というワードは、峯さんを指していることは理解した。部下を携えていることや金銭事情、身なりから察するに、企業の重役なのではないかという推測はしていたものの、どうやら正解だったみたいだ。「分かりました」と短く返すと、視線が些か刺さる。彼女には私の存在をどう伝えられていたかは分からない。しかし、彼女は私の存在を快くないと思っているようだ。人の悪意や不快感を感じ取る能力は、昔から私が得意とする所である。私を不審がっているのか、はたまた違う理由か。"別に峯さんとは男女の関係でもありませんよ、ご安心ください"なんて火に油を注ぐ台詞は言うつもりはない。
暫く壁に掛けられた絵画を鑑賞していると、峯さんが入室してくる。目が合ったので、軽く会釈をするが無反応だった。目の前に深く座ると、いくつかの書類をテーブルに並べた。
「契約書に目を通してください。確認したら押印してください、無ければサインでもいいですが」
淡々とした物言いに挨拶も無しかと呆れたが、きっと忙しい敏腕経営者の性なのだろう。B5用紙に目を通す。飛び込んできた文字の羅列に、私は思わず顔を上げ、峯さんの顔を凝視する。相変わらず眉間に皴は寄っていたものの、その薄い唇は弧を描いている。この男が笑っているのを初めて見た。"NOとは言わせませんよ"とでも言うような表情。確かに、生殺与奪の権は彼が握っているようである。仕方なしにサインをし、再び顔を上げると峯さんはいつもの無表情に戻っていた。
再び車に乗せられ、連れて行かれた先は少し都心を離れた小綺麗なマンションだった。荷物をフローリングに落とす。私としては置いたつもりではあったものの、手に力が入らず落とした形になってしまったのだ。マンションの中層、一人で暮らすには少し広めの2DKの部屋。今、この瞬間からでも暮らしていくのに困らないくらいの家電製品も揃っている。一方の洋室にはダブルサイズのベッドが置かれている反面、もう一方の洋室には何も置かれていない。どうやらこの部屋をアトリエとすればいいということだろうか。
契約の内容を一言で表すと、"衣食住は保障する対価として、絵を峯さんに献上する"ということだった。そこまでするくらいには私の絵を評価してくれたという認識で合っているのだろうか。まともに彼と会話を交わさないまま、私にとっては得でしかない契約が交わされた。昨日は家を失くしてたかだか12時間を公園で過ごしたわけだが、必死に不安を押し殺して絵を描いていたことに今になって気がつく。世間的に言えば決してまともだとは言えないかもしれないが、どうやって生きていくことの問題はこれで消えたようだ。
キャンバスやイーゼルは明日届くようにと手配してくれたらしい。昨夜峯さんと出会った時の描きかけのクロッキー帳のページを開く。何も置いていない部屋の隅、壁に背を預けて座る。曲げた足を台の代わりにして、クロッキー帳を置いた。背中を丸めて、何も見ないふりをして絵を描き続ける過去の自分を思い出す。親の小言だとか、諍いだとかに関わりたくなくて、必死に小さくなりながら目の前の紙に線を継ぎ足す小さい頃の自分。あの頃と今で何ら変わらない自分の姿に、やはり世間一般の人との劣等感を覚えてしまう。そして、それからも目を背けるようにして私は描き続けるのだ。