Silvia

story

 23/02/15


淵にて

 冬を迎えようとしている冷たい風が、葉を落とし寒々とした木の枝を揺らした。クロッキー帳のページが捲れてしまいそうになるのを、私は水気と温度の抜けた指先で押さえる。ベンチに接する尻が冷気で冷たくなっているのを感じる。ふと腕時計に目を落とすと、時刻は21時を回ったところだった。児童公園には当然ながら子供一人おらず、斜め向かいのベンチには頭を垂れたサラリーマンが居るだけである。ふと公園の外に目をやると、街灯に照らされたカップルが向かい合っているのが見える。寒さのせいか、お互いに身を委ねあう二人の姿が嫌に眩しい。明かりの明暗もあってか、こちらの世界が一層暗く思えた。
 自分のクロッキー帳に再び目を落とす。少し鉛筆を走らせたところで、自分の影とは異なる影が一つ、紙の上に落ちているのが気が付く。顔を上げると、眼光の鋭い男の人が私を見下ろしていた。やけに身なりの整った、オールバックの男性。香水の匂いが分かる程に、距離が近い。

「…なんでしょうか?」

 自分の声の抑揚の無さに驚く。相手の気を立てないように、丁寧な物言いにしたかったのだけれど。人と話すのが久々であるためであろうか。それでも男性は、特に怪訝そうな表情を見せなかった。かと言って、彼が何を考えているのかは明確には分からない。深く刻まれた眉間の皺が、唯一気難しそうな印象を与えるだけ。

「随分と寂しい絵を描くんですね」

 低い、無機質な声。男性はクロッキー帳の、街灯の下で一人佇む女性を見つめる。
そういえば、美大時代の先生による講評でも同じような事を言われた覚えがある。自分としては意識して描いたつもりもないのだけれど、他人にはそう見えるらしい。原因は恐らく自分にある。他人とのリレーションシップを充足させることが出来ていないからであろうと。それでも私にとってはどうでも良かった。ただ、自分が描きたい絵が描くことが出来れば。

「そうですかね…」

 覚束ない返答をする。なんと返すのがベストなのかは、私の浅い経験からでは考え付かなかった。
しかし、「でも」と彼は続ける。「良い絵だ」と。

 暫く彼は私の隣で私のクロッキー帳に線が描き足されていくのを無言で見ていた。私も特段饒舌な方では無い。無から話題を出せる程器用では無いのだ。聞きたいことは幾つかあるのだけれど、初対面の男性に対してフランクに聞けない自分がいた。それに、スマートな出で立ちではあるものの、どこか"普通の人"とは思えない様相が余計に私を躊躇わせた。

「吸っても?」

 彼は懐から煙草のパッケージを見せるようにして、私に問う。「どうぞ」とだけ返すと、慣れた手つきで煙草に火をつけた。独特の香りが鼻を刺激する。彼の長く少し節くれ立った指が、口元から離れていく。綺麗な横顔だった。煙が向かい風を受け、彼の顔の輪郭を辿って昇っていく。正直煙草は好きではないが、絵になるなと単純に思った。

「アトリエはどちらに?近々見学させていただきたい」
「…アトリエどころか家も…無いです」
「は?」

 まさかいい年した女が家無しだと思わなかったのだろう。彼のポーカーフェイスが崩れ、面食らった顔をする。
 美大を卒業して何年だろうか。自分の意思の働くままに絵を描いていた。就職をしろとの親の苦言も、―細かいことは覚えてないけれど―右から左へと流していた結果がこれだ。今朝、ようやく絵が仕上がったため久々にリビングへと出向くと、険しい顔をした両親が待っていた。椅子に座るように指示されると、私に差し出されたのは現金が入った封筒だった。"もう帰って来ないでほしい"という言葉とともに、私は身一つで叩き出された。年を越す前の断捨離とでも言うのだろうか。決して多くはない現金で最初に買ったのはクロッキー帳と鉛筆だった。少し冷静になれた今なら、自分は親のすねを齧って生きてきたのかと多少の自覚がある。親にとっては不良債権になってしまっていたのだと。しかし、自覚をしたところで心もとない現金だけでどう動いたらいいのか分からず、逃避をするように昼過ぎくらいから神室町の児童公園で絵を描き続けていた。
 簡潔に身の上話をすると、彼は眉間の皴を一つ増やして「では、今まで描いた絵はどこに?」と私に問う。

「さあ?今頃燃やされたりしてるんじゃないですか。元々画家になるのを反対してた親ですし」

 彼は軽く頷き、携帯電話を取り出すとどこかに掛け始める。「峯だ」と。そこで私は彼の名字が"峯"であることを把握した。



 峯さんは部下らしき男を児童公園前に呼びつけると、私に実家の住所を聞いた。児童公園に横付けされた黒塗りのスモークが貼られたワンボックスカー。訳の分からないまま―なんだか逆らってはいけないような気がして―住所を伝えると、車は私と峯さんを乗せて走り出した。
車中では特に会話は無く、20分もしないうちに神室町から少し離れた住宅街に着く。今朝ぶりの自宅だった。一軒家である自宅前には、ごみ袋に入れられたキャンバス達が明日のごみ収集を待っていた。峯さんは一番手前の袋を空け、今朝仕上がったばかりの一枚を手に取る。

「…君はこの絵に値段を付けるなら、幾らだ?」
「分からないです。売ったことも無いし…」

 自分にとっては好きな絵を描いているだけ、他人から見た価値など到底試算が出来なかった。別に欲しいと言われたのなら、求められたのなら、そのまま無償で差し出してもよい。峯さんが私の絵に対して評価を口に出した訳ではないが、絵を欲していることだけは理解できる。それだけで嬉しかったのだ。私が表現した世界観に少しでも共感してくれたことが。
 「そうか」と峯さんは呟くと、自宅のインターホンを鳴らした。「どちら様ですか」と、母親の声がスピーカー越しに聞こえる。その声に再び対面することができることへの安堵や、私を捨てた憎しみと言った感情は生まれなかった。元々私たちは、"親と子"という名だけだけの繋がりなのだ。それが切れた今、ただの他人同士になっただけの話である。暫くすると、訝しげな顔をした母親がドアから顔を出した。峯さんが名刺を取り出し、母に差し出す。差し出された名刺から顔を上げた母が、峯さんの背後に立つ私の存在に気が付いた。

「あんた、どういうつもり?帰ってくるなと言ったはずだけれど。それにこの人たちはなんなの?」

 語気を強めて母親は私に問うが、私だってこの人たちの素性は知らない。なんなの、と私との関係性を問われても"さっき出会った良くわからない男の人"としか言いようが無い。私にこの状況を問われたところで何も分からない。無言のまま突っ立っていると、ヒステリック気味な母親の怒声が耳を劈く。そういえばこのヒステリックが嫌で自室に籠って絵を描き始めたんだっけ、と遠い昔を思い出す。

「お宅のお嬢さんの絵を全て買い取らせていただきたい」

 その声と共に、私の隣に控えていた峯さんの部下であろう男性が、峯さんに革の鞄を差し出す。鞄の中から、今朝私に差し出された封筒の厚みとは比べ物にならないくらい、膨れ上がった封筒を母に差し出す。私は母が目の色を変えたのを見逃さなかった。建前上他人の前で欲を出すのは無作法だと理解しているのだろうが、固辞しないところを見ると"棚から牡丹餅"くらいにしか思っていないのだろう。

「…結局お金、か」

 誰にも聞かれないように呟いたつもりだったが、峯さんの耳には入ってしまったようだ。こちらを向いた峯さんが何かを言いかけて、止めた。代わりに、部下に絵の全てを車に詰め込むように指示をする。峯さんは早々に車へと戻り、部下の男性は次々へと絵を車内に運び込む。

「あんた…」
 
 にやつきが止められないのか、口の端を下げようとして必死になっている母が声を発する。次に母が何を言うのかは分からなかったが、直感的に何か嫌な予感がした。しかし、何も言えずその場から動けない。蛇に睨まれた蛙とはこういう事を指すのだろう。

「新藤さん、乗ってください」

 背後に停められていた車の後部座席のサイドウィンドウから、峯さんは顔を出し私を呼ぶ。ふと我に返ると、頭より先に身体が動いた。
母に引き留められることも無いまま、そして私も母に何も言うことも無いまま、峯さんの隣へと乗り込んだ。座席から後部を見ると、ラゲッジスペースには所狭しとキャンバスが詰め込まれていた。

 ―これからどこへ連れていかれるのか、分からぬままエンジンは回転速度を上げ始める。