▽ story

白昼夢
スマホのバイブレーションが、布越しに着信を伝えた。ここ、伊勢佐木異人町ー、神内駅の西側の高架下道路、木陰を探してバイクを停める。スマホを手に取ると、暑さで発熱した機械の熱が皮手袋越しに皮膚を伝う。発信者の名前を確認する。自分の想定外の相手に、どんな声色で返すかを考えながら、通話ボタンを押した。
「もしもし…お久しぶり」
「よう、アキちゃん元気だったか?」
相変わらず陽気でいて、耳のこそばゆくなりそうな低音が、機械越しに届く。仕事中だっただろう、とこちらを気遣う様子に、足立さんとの距離を少し感じた。
約半年前、私は青木の一件を追う中で一番達に同行した。一番達は、私を仲間だと認識していたし、私もまたそうだった。しかし、私の性格上、誰かと深い関係性を持つと言うことが苦手だったためか、仲間の枠を越えて対一人で付き合うことがほぼ無い。例外として、一番は何かと気にかけてくれており、自分自身でも測りようの無いくらいの信頼を彼に置いてはいる。それが故に、足立さんから個人的に私に連絡が来ると言うのが意外だったのだ。
「情けねえ話なんだが、いやあ、腰をやっちまってなあ。俺もやっぱり、歳だってこったな」
「それは災難じゃない…病院は行ったの?」
「行ったよ行った、しかしよお、医者のやつ痛み止め飲んで安静にしとけって言うんだがー、相変わらず痛えんだよ」
足立さんが“あの医者、ヤブなんじゃねえか“と愚痴をこぼす。一向に見えてこない要件に、謎が深まるばかりである。愚痴を言いたいのなら、一番やナンバにコールすれば良い。きっと、愚痴をこぼす相手には私は選ばれないはずだ。“情けのない話“というのならば、二回り近く年下の女にするようなものでも無いだろう。しかし、酔っ払っている様子も無いし、間違い電話でも無さそうだ。
「それでよ、都合がつくならー、食料持って来てくれねえか?」
なるほど、と合点が行く。運び屋である私に、文字通り運んでくれというご依頼だった訳だ。いつも運んでいるブツと比べると、かなり平和なものである。使いっ走りなら、一番に頼みそうな気もするが、“運ぶ“という単語から、私に紐づいたのかもしれない。
「お安い御用で。欲しいものと、住所をメッセージで送っておいて」
「悪ぃなあ」
しょぼくれた足立さんの声を後に、通話を切断する。数分後、メッセージで送られてきた住所を地図アプリで確認する。見慣れた地形が画面に広がっていた。意外にも、足立さんの家と自宅が近い。これなら自宅にバイクを置いて、徒歩で向かおう。足立さん宅にバイク置き場があるとも限らない。
…そういえば、あれだけ密な時間を過ごしたというのに、誰がどこに住んでいるなどを知らない。人柄は知り得ようとも、個人の情報はほぼ知らないことに気がつく。それでも、ただ馬鹿みたいに酒を飲んで、くだらない話をして、時には真剣に額を突き合わせた時間が好きだった。少し思い出すだけで、自然と笑みが漏れる。半年前の、苦も楽も共に過ごした時間が私の生きた二十数年間の中で一番、充実していたかもしれない。
湿った地面から足を離して、アクセルを入れる。少し、気分が高揚している。暑く、蒸すような風は私の身体も、頭も冷やしてくれることは無かった。
*
良く言えば趣のあるアパートの2階へ、錆と泥で汚れた鉄骨階段を昇る。劣化で黄色くなったインターホンを鳴らすと、中から「開いてるぞー」と返される。ドアノブに手をかけ、左肩でドアを押さえる形で中に入る。両腕に掛けていた、大量の食糧で膨らんだビニール袋を玄関先に置く。予想していた通りの中年男性の住居の姿と言ったところだろうか。広いとは言えないキッチンにあるコンロの上、口を傾けたゴミ袋の中に酒缶が溢れんばかりに詰め込まれている。
「いやあ、悪ぃなあ。買い物に行こうにも動けなくてな…助かるぜ」
「いいよ、気にしないで。足立さんの方が大変なんだし」
本日何回めかの、“悪いな“を聞く。別に大したことではないし、仲間から頼られて嫌な気分はしない。
足立さんから了承を得、冷蔵庫に食品を詰めていく。電子レンジさえあれば、即席で食べられるようなものを中心にチョイスしたつもりだ。私も食に関しては拘らないタチで、一人暮らし歴はそこそこ長いものの、自炊などはほぼしない。自分が気に入っている冷凍食品なども買ってみたが、足立さんの口に合うだろうか。
一通り作業を終え、私は缶ビールを2本持って足立さんが座る窓際へと移動する。缶ビールを目の前にチラつかせてみると、目を輝かせた足立さんが「マジか!ありがてえなあ!」と嬉々として手を伸ばした。買い物リストの中には無かったそれは、私からのささやかなプレゼントである。
「そういえば、冷房つけないの?今日、そこそこ暑いけどさ」
「残念ながら故障中だ。直す金もねえ」
「大家に言えばなんとかなると思うよ。基本的に貸主負担だし」
「マジかよ。明日言ってみるかな」
プルタブを引くと、耳障りの良い開封音が部屋に響く。開け放たれた窓からは、相変わらず熱風が髪の毛を揺らす。平日の昼下がり、木々が風で揺れるのをただ見つめ、同時に平和なものだと感じる。四季を真正面から感じるという、余裕を手にしている。ビールを三口ほど、一気に流し込んだ。足立さんは、つまみのあたりめをビールで流し込むと、「うめえなあ」と独りごちた。
「そういやよ、アキちゃんは結婚しねえのか」
「結婚どころか相手すらいないって。自分の面倒だけで手一杯だし」
「なるほどな。ま、その気があるなら早い方がいいぜ」
「独り身のジジイからのアドバイスだ」と、足立さんは付け加えた。年の功、と言うのかそれとも、老いた故の後悔なのか。私としてはどちらでも変わらないのだが、きっと足立さんにも思うところがあるのだろう。世間話などではなく、一人の人間の将来について案じているのは理解している。考えることから逃げていた将来設計に、そろそろ向き合わなければいけない年頃なのだと痛感する。
「それに身近に若いやつが居るだろ、趙だとかハン・ジュンギとかよ。あいつらと割と仲良かったじゃねえか」
「仲良かったけどさ、正直恋愛だなんだのって考えてなかったよ」
「そうかよ、あいつら可哀そうだな」
巨体を揺らして、けらけらと足立さんは笑った。腰に負担がかかったのか、いてて、と患部を擦る。ふと、家族の顔が浮かんだ。病気などしていなければ、恐らく健在だろう。周囲に彼らの現状を教えてくれる人もいなければ、自分から情報を進んで得ることなど無い。昔は憎しみ、それでいて愛を乞いたものだが、今では至極どうでも良かった。死んでても、生きていても。恐らく、彼らも私に対してはそうなのだろう。だけれど、記憶というのは完全に消えないもので、ふとした拍子に辛かった記憶というのは甦るものだ。
私は早いうちから煙草の味を覚えた。いつしか、口から吐く煙を、涙の代わりに吐き出すのが習慣になった。もう二度と泣いてやるものかと決意した日のことを思い出しつつ、煙草を口にくわえる。生暖かい空気に、煙が溶けて燻された葉の臭いが部屋に留まる。
「…それに、理想的な家庭に自分が居るって想像できなくてね。親父は家庭なんて省みなかったし、母親は兄貴たち贔屓だし、兄貴たちとも…そんな仲良くなかったからさ。ま、家庭を持つとしても来世になるんじゃない?」
足立さんも、座卓に置かれていた煙草とライターを手繰り寄せて、火をつける。二人分の煙が混ざり合い、天井へと昇る。少し、感傷的になっていると思われてしまっただろうか。
天高い太陽は、じりじりと私たちを焼くように照らす。部屋の隅にでも行けば、多少は体感温度も下がるのだろうが、どうにもそういう気分にはならなかった。
「ま、アキちゃんがどう生きようが否定するつもりはねえよ。困ったらなんでも言ってくれ。俺だって今もこうやって腰痛めてアキちゃんに来てもらってる訳だからな」
大きな、厚みのある、重たい手のひらが私の頭に乗せられた。私の記憶には、誰かに撫でられた記憶が無かった。それが、30歳を手前にして初体験となるとは、思ってもみなかった。「味方でいるぞ」とでも言うように、ポンポンと頭を撫でられる。
「足立さんがお父さんだったら良かったのになあ。年齢的にも丁度いいし」
「か~、こんなお転婆が娘だったら、俺でも手に余っちまうぜ」
足立さんが大袈裟に後ろにのけ反り、額に手を当てて大笑いする。と、同時に大きな声で腰の痛みを訴える。なんだか、その高低差が可笑しくて、私たちは顔を見合わせて笑う。目じりにいくつも皴を作って笑う足立さんに、どこか気恥ずかしさを覚えて、温くなったビールの缶を傾け、喉に流し込んだ。