▽ story

忘却
「今日は貴女に、お別れを言わなければなりません」
磨きに磨かれたナイフが、灯りを反射して、私の目を眩ませた。不意に視界の半分くらいが霞みがかかる。想定していたことではないか、と自分自身を説得にかかるが、気持ちが頭についていかなかった。料理名もわからない、"綺麗に赤みを残されて焼かれた牛肉の料理"から、鉄さんの顔を伺う。喜怒哀楽を滅多に表に出さない鉄さんではあるが、今ばかりは少し眉尻を下げている。これが演技か本心から来るものなのかは、私には判断しかねた。
時代は黄金期というのに、私はというと質素な暮らしをしていた。
時勢が時勢のため、私が勤めている場末のスナックにも暇と金を持て余した人間が絶え間なく訪れていた。時に若さというものは力になる。当のスナックは神室町では全く目立たない存在だったものの、若いというだけで鼻の下を伸ばした男性が、次々に私の安ドレスと肌の間に札をねじ込んだ。帰宅後は、それを丁寧に一枚一枚向きを揃えて重ね、クッキーの空き缶に仕舞った。夜な夜なクッキー缶に仕舞われた札を数えては、精神を落ち着けるような、お金以外何にも拠り所を持たない生活をしていた。
しかし、自分が「上手くいっている」状態など長くは続かない。今から数ヶ月前、どこぞの不動産がスナックの入っているビルごと立ち退きを要求してきたのだ。金に目がくらんだオーナーは、その場で二つ返事をし、同時にスナックの閉店を笑顔と共に宣言した。同僚たちは、「どうにでもなるか」というような雰囲気を纏いつつ、店を去っていった。その店に特段情がある訳ではなかったが、自分の勤め先が「今日をもって閉店します」といきなり言われようものなら、動揺の一つでもあって良いものではないかと思った。しばらくの間、その場から動けないでいると、その姿が"いきなり職を無くした不憫な女"に見えたのか、鉄さんがオーナーに向けるのと何ら変わらない笑顔で、「何かご馳走させていただけませんか」と声を掛けてきた。それから、先程まで、鉄さんと私は関係を持っていた。
別れる、というのは私達は付き合ってたということになるのだろうか。それとも、単純に会えなくなるという意のみをこめていたのだろうか。鉄さんは、今まで私が手にしたことが無いような装飾品―今着ているドレスだってそう―を与えてくれた。何度か身体も重ねた。彼の右手が義手だと言うことも知っている。しかし、"愛されている"というような実感が持てずに、別れを告げられてしまった今、私はどのように返事をするべきなのか図りかねている。
「短い間でしたが、貴女と居れて良かった。私は、心から貴女に幸せになって欲しいんです」
「…多分、私が何を言っても、覆らないのですよね」
「…残念ながら。私のことはどうか…忘れてください」
綺麗な別れ方など、トレンディドラマ上でしか存在しないのかもしれない。綺麗に泣いて、それでも笑顔で、思いの丈を告げられるほど、出来た女ではない。
そっと椅子を引き、立ち上がる。別室へと向かう私に、鉄さんは何一つ言葉を発さなかった。胸元にビジューが散りばめられた、紺色のドレスをそっと、肌から離す。着てきた普段着を身にまとうと、鉄さんと過ごす夢のような時間は終わったのだと実感が湧く。シンデレラもきっと、同じような気持ちだったのだろう。丁寧にドレスを畳み、その上にイヤリングとネックレスを乗せた。
先程まで食事をしていた部屋に戻ると、鉄さんは大きくひらけた窓際に立っていた。足元には、神室町がしつこいくらいに輝いていた。自分が、誰よりも高い位置に立てる経験など、もう二度と無いのだろう。鉄さんは自身のことを"只の不動産屋"だと言っていたが、本性は分からない。きっと、自分が思うより大きな力を持っている人間なのだろう。一般人の端くれである、鉄さんに見合わない人間である私が、短期間と言えども鉄さんの隣にいた意味とは何か。知ることなく終わってしまった。
「忘れろと言うのなら、これ、お返しします。
今まで、ありがとうございました。幸せでした」
ドレスを手渡す。鉄さんの右手の皮手袋が指先に触れた。冷たさも温かさも感じない、無機質な感触が、唯一の救いだった。
*
*
「遅かったじゃねえか桐生」
セレナの扉を開けると、「待ってました」と言わんばかりに錦が俺に声を掛ける。「もう用事はいいのか?」と聞く錦に、頷いて見せる。いつもの座席に着き、煙草に火をつけた。何故だか、無性に肺が煙を欲していた。胸のあたりに少し空間が出来たような感覚。上手く埋められる方法が分からない。
「用事ってなんだったんだよ」
「いや…大した事じゃない」
錦が俺に問う。恐らく文字通りの意味以上のことは無く、詮索の意図も無いだろう。しかし、立華のプライベートを他人に告げるのは少し躊躇われた。
俺が立華不動産と手を結んだ少し後だっただろうか、"自分に何かあった時には、これを新藤アキに渡してほしい"と、手に余る大きさの箱と、新藤アキと呼ばれた人物の家の住所が書かれたメモを託されていた。"もし、できれば"と立華は付け加えた。紫苑の花を添えて頂きたい―、と。
「なあ…麗奈、紫苑の花言葉って知ってるか?」
「いきなりなあに?変なこと聞くのね」
麗奈はグラスを拭きながら、くすくすと笑った。俺の口から花言葉など、少女が使うような単語が出たことに笑っているのだろうか。思わず深くなる眉間の皴を見て、麗奈は「ごめんごめん」と笑った。
「"君を忘れない"だったかしら」
「…そうか」
箱を渡した後、彼女は"私には忘れろって言ったくせに"と言って顔を伏せて泣いていた。彼女の台詞と花言葉の関係に、なるほど、腑に落ちる。手渡した箱を開け、彼女の手によって取り出されたのは紺色のドレスだった。大事そうに抱きしめながら涙を流す彼女と、立華の正確な関係性は俺には分からない。
――ただ、今も、静かに泣く彼女の姿が頭から離れずにいる。