レッドシグナル
 アパートの外階段を誰かが上ってくる音が聞こえた。一段昇ったかと思うと、しばらく間を開けて、また一段昇るを繰り返す。本を読んでいた私は、本の内容より、いつになればその人が階段を登り切るのかが気になってしまった。しばらく耳を澄ませていると、その人は私の住んでいる階で階段を上るのをやめた。外通路を辿々しい足音を残しながら歩いて行く。段々足音が近づく。もうすぐ私の部屋を通り過ぎるのだろうと、無意味に息を呑んだ瞬間、足音は止まる。 …そういえば鍵を閉めてたか、記憶が定かではない。講義の後にバイトに行って、フラフラになるほど疲れて帰ってきて…。あれだけギャリーに”女の子の一人暮らしは危ないんだから”と口酸っぱく鍵を閉めるように言われていたのに。鍵を閉めたか見に行くのも考えたが、未だに動かない足音は玄関のドアを一枚隔てた先にいる。もし鍵が閉まってなくて、私が鍵を閉める瞬間にドアを開けられたらどうしよう。いや、かと言って行動を起こさずにいても、落ち着かないだけだしなあ…。渋々重い腰を上げ、玄関へ出る。玄関に続く廊下の電気は点いていない。真っ暗な先のドアが行き成り開け放たれたら…。腰を抜かす自信がある。勇気を振り絞ってドアに近づくと、鍵はちゃんと閉めてあったのが確認できた。良かった、と安堵した途端に、表から鍵が差し込まれる。

「やっ…」

 思わず小さく声を上げる。ドアの向こうの人物は、鍵をガチャガチャと乱暴に開けようとするが、当然のことながら鍵は開くはずがない。何時まで続くのだろう。足がすくんで動けなかった。出来るだけ中に私がいることを悟られないように息を潜める。

「ギャリー…っ」

 無意識に彼の名前を呼ぶ。
助けて欲しい、そう願った時だった。

「何よもう!いい加減にしてよね!何で開かないわけ?!」

 よく聞き知った声が聞こえた。その声がギャリーの物だと分かると、ぷつり、と緊張の糸が解けて全身に力が入らなくなる。それでも身体は素直なようで、相手がギャリーと分かれば、一刻も早く彼の元へと勝手に身体が動く。未だちょっと震える指先でサムターンを回し、ドアを開けると、ギャリーもいきなりの事にびっくりしたのか後ずさった。

「あらやだ!なーんだ、の部屋だったのね!通りで鍵が開かないわけね!」
「こんばんは、ギャリー。もう夜だから少し声を静かに、ね」

 彼もドアを開けたのが私だと分かると、上機嫌で私にハグをする。いつもと違うギャリーの匂いに、私はクラクラとしてしまう。その原因がお酒の匂いだと分かると、やたらとギャリーが上機嫌な理由も理解できる。ギャリーが隣の部屋を自分の部屋と勘違いした理由も。ギャリーめ、酔っているな…?このまま放っておくわけにもいくまいと、半ば引きずるようにしてギャリーを部屋に入れる。とりあえずリビングのソファにでも寝かせておこうと、背負うような体勢で引きずる。私の首に回されたギャリーの腕が、滑り落ちるまいと私をがっちりホールドしていた。

「ギャリー、重い、よ」
「んふふー、それはアタシからへの愛の重さかしらねえ」

 呂律も回っていなければ、語尾は伸びるし、まず話にならない。ため息を付いて一瞬気が抜けたその時、カーペットとフローリングの間につま先が引っかかる。まずい、と思ったのもつかの間。私はギャリーもろとも倒れる。手はついたものの、ギャリーの重さに耐え切れずに最終的には床と顔がくっつくハメになる。…毛足の長いカーペットの上で良かった。フローリングだったら鼻を強打するだけじゃすまなかったかもしれない。うまい具合にカーペットがクッションになってくれたらしい。少し鼻は痛むけれども、大したことは無かった。

「ん…、ごめんねギャリー、大丈夫だった?」
「ちょっとビックリしたけど平気!アタシはこの通り元気よ!」
「そっか、よかった…。じゃあギャリー、ちょっとどいて…」

 床とギャリーに挟まれている私は身動き一つ出来なかった。相変わらず胸元に回されているギャリーの手は、動くことはしなかった。埒があかないと思った私は、自ら床に手をついてギャリーを押し返すが、それに気づいたギャリーが体重をかけ直してくる。私の背中とギャリーの前半身がくっつく。女の人とは違い、男の人の身体はやたらと硬い。ギャリーの体の線が私の身体を通して伝わる。こんなにも密着していることに気恥ずかしさを覚える。

「んふ、なんだか、からいい匂いがするわ」
「ん、やだ、くすぐったい」

 首筋にギャリーが顔を埋める。ギャリーの高い鼻が私自身の髪の毛と共に首筋をくすぐる。ぞわり、と触られているそこだけ意識が集中しているのか、やたらと敏感になる。精一杯の抵抗をしようと、顔を動かしてギャリーの行動を妨げる。

、動かないで」

 行き成り声のトーンを低めに、それも耳元で囁かれたものだから、意識せずにピタリと身体が停止する。未だ脳内でギャリーの声が反響しているような錯覚に陥っている隙に、ギャリーは右を向いた私の顔の輪郭に舌を這わせる。チラリと見えたギャリーは、とろん、とした眼をしていた。照明の光の加減で、ギャリーの顔にまつげの影を落とす。目の端で捉えたギャリーの舌は、これ以上ないくらいに真っ赤だった。

「あっ、やだ、ギャリー何やって」
「ふふ、照れなくてもいいのに」
「照れてな…、ギャリー、お酒臭い…!」


 口を開く度に強烈な酒の匂いが鼻腔をつく。ギャリーの舌が私の顎先へと到達すると、そのまま直線を描くように唇へ舐めつく。私の上唇を舌の先端で弾くと、何が面白いのか、ギャリーは目を細めて笑う。「柔らかいのね、のは」と今度は啄むようなキスを落とす。どうにも出来ないもどかしさと、してやられるままの羞恥は麻酔のようだった。腰のあたりが疼く、変な感覚。もしかしたら自分は変態なのではないだろうか。こんな、酔っている人の戯れで、一人疼いているなんて。

「んう、お願い…離して」
「いや」

 言い切らないかの内に断られる。ギャリーに私が変だってことを指摘されたら、恥ずかしさで死ねる自信があった。悟られる前に、早く、ここから抜け出したい。彼は酒のせいで大分体内の温度が上昇しているのか、額に汗を滲ませていた。

「あっついわね、もう」

 私を跨ぐように膝立ちになると、徐に紺のコートを脱ぐ。その動作の合間も、ずっと私を見下ろすように見つめる。私はというと、蛇に睨まれた蛙のように動けずにいた。ボタンを外す指、空気を吸う為に少し開かれる唇。一々妖艶な仕草で私の目線を捉える。それでも、逃げ出すなら今しかない。力の入らない手で下半身を引きずるようにギャリーから少し距離を取り、立つまではいかないものの、その場に座り込む。ギャリーに背を向けた。息をしている実感が出来るくらいにまでは落ち着くことが出来た。何故だかわからないけど、涙が目元で膜を張っている。

「…、怒ったの?ごめん、ね」
「ち、ちがうの、私、なんか、変になって」
「…変?」
「なんか、ギャリーに触られる度に、頭、おかしくなりそうで」
「あら、なんだ、そんなこと?」

 あっさりと”そんなこと”で切り捨てるギャリーはこう続けた。
「アタシなんか、さっきに触れた瞬間から可笑しくなってるってのにね」と。