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Emotion in the box 屋根に雨粒が跳ねる音で目が覚めた。 やたらと重たい瞼をこじ開ける。昨日、私はどこで寝ていたんだっけ、と曖昧な記憶を辿ると、談話室のソファの上だった。顔周りがべとつく感覚に、化粧も落とさず寝てしまったことに一瞬で後悔する。 千秋楽の後の打ち上げは、いつもこうだ。私の中のタカが外れてしまうようで、次の日を一日寝て潰してしまうくらいの勢いで酒を飲んでしまう。昨日は東さんがどこからか手に入れてきた日本酒が美味しくて、最終的にはお猪口なんて面倒だと、マグカップに入れて飲んでいた気がする。 目線を少し座卓に向けると、私専用のマグカップが鎮座していた。アルパカのキャラクターがこちらを見ている。「いい年して飲みすぎるとかやばすぎ」ニヒルなアルパカのキャラクターが、そう言っているように思えた。 私がMANKAIカンパニーに来たのは、ひょんなことから仕事と居住地を無くしたのが始まりだった。監督さんに拾われ、"お手伝い"の形で住まわせてもらっていることは、とても幸運なことだった。 世間からも見放され、死んだように生きていた私にとって、なによりも感謝をしなければいけないのは、居場所が与えられた事だ。温かい食事と、それを囲むメンバーという風景の一員になれたことに、時折涙腺が緩む。 監督にはとても頭が上がらない。そんな私が、彼女らに何ができるのかを日々問いながら謙虚に過ごしているつもりではあったのだが、どうしても私の性分なのか、酒が入ると普段よりテンションがオーバー気味になってしまうようだ。今では恒例になっているようで、太一くんも「さんの調子出てきたっすね!」と歓迎してもらえているようだが、若干不本意ではある。 今の時刻を確かめるために、手探りで自分の周囲を探る。頭あたりに手をやったところで、誰か人とわかるものに触れる。申し訳ない、と気怠い頭を上げてみると、左京さんが腕組をしたまま座って寝ていた。どうやら腿のあたりを触ってしまっていたようだ。あまりの恐れ多さに胃がヒュッと縮むが、当の本人は大分深い睡眠にあるようで、身じろぎ一つさえしない。 身を起こし、改めて周囲を見渡すと、昨日の宴会の残骸がそのままの形で残っていた。左京さんの他に、シトロンさんや誉さんといった面々が息絶えていた。辿れる限り記憶を遡ってみると、最後まで隣りにいた東さんは、どうやら自室に戻っていったようだ。 「おはよう、素敵な髪型をしているね」 マグカップを片手に千景さんが私を見て、嫌味ったらしく笑う。慌てて寝癖を手ぐしで整えると、千景さんがふっと、鼻で笑った。彼が片手にするマグカップからは、コーヒーのいい香りが漂ってくる。シャワーでも浴びたのか、少し上気した頬がなんだか色っぽくて、思わず目をそらしてしまう。 「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ないです」 「キミもシャワーでも浴びてきたほうがいいんじゃない。取り敢えず水でも飲んだほうがいいかもね」 自分の声があまりにも濁声だったのが、やけに恥ずかしい。「ちょっと待ってて」、と千景さんが再びキッチンに戻っていった。帰ってきた千景さんに手渡されたのは、水の入ったコップだった。テーブルの上にも水の入ったペットボトルはあるけれど、冷えた水を持ってきてくれたのは、彼なりの優しさなのかもしれない。 「すみません」 「すみません、でもいいけど」 「…ありがとうございます」 「正解」 そう言って彼は少しだけ目を細めて笑った。 「さて、俺は部屋に戻るよ」 じゃあね、と私を一瞥すると千景さんは自室へと戻っていった。再びこの場に残される。千景さんの言うとおりにシャワーでも浴びるか、と腰を上げかけるが、散らかったこちらを片付けるのが優先だろうかと迷う。散らばった袋の菓子、開けっ放しの酒瓶、干からびた惣菜。しかし、雨による湿度と、寝汗の不快感が拭えない。床に転がっていた自分のスマホを確かめると、時刻は午前5時を回ろうとしていた。未だこの時間帯なら談話室が荒れていても誰も困らないかと、シャワーを浴びることに決める。もう一つ、忘れそうになっていた眼鏡を掛ける。昨日の酔いが残っているのか、視界もそんなには明瞭ではない。床に転がっている密さんを踏まないように避け、自室へ着替えを取りに廊下へと出る。 談話室から抜けると、籠もった空気から開放される。湿った朝の空気が頬の横をすり抜けていった。 * シャワーは偉大だ。 嫌になるほどの不快感をお湯一つで洗い流せるのだから。時刻は5時半前、睡眠時間が少ないとはいえ、早く起床したことに得を感じる。談話室を片付けたら、皆の朝ごはん用におにぎりでも仕込んでおこうか。昨日は臣くんもそこそこ飲んでいたようだし、朝ごはんの支度をさせるのも気が引ける。 シャワーを浴びたことで、霞がかっていた思考も晴れてくる。髪を乾かし、さて、片付けだと眼鏡に手を伸ばしたところで違和感に気がつく。 「あれ…」 これ、私の眼鏡じゃない。 私の眼鏡は、手にとっている眼鏡と同じく黒縁眼鏡ではあるが、もう少しフレームが細めで、もう少しレンズも薄かったはずだ。この寮で黒縁眼鏡を掛けている人間といえば…。 * 慌てて談話室に戻ると、まだ左京さんは眠りについていた。ほっと胸を撫で下ろすと、テーブルに置いてある自分の眼鏡と、左京さんの眼鏡を取り替える。起きていたのだとしたら、怒られていたかもしれない。流石に二日酔い状態で叱られるのだけは勘弁したい。 なんとなく、左京さんの顔を眺めてみる。普段人の顔を見て話せないせいか、左京さんの顔をちゃんと見るのも初めてかもしれない。少し跡がついた眉間、薄めの唇に、計算されたようにならんだ目の下のほくろ。 ─お前が少しでも来たいと思うなら、来ればいい。お前の気持ちは否定しねえ。 私が監督に声をかけられて、それでも見知らぬ人に助けられるという引け目に悩んでいる最中に左京さんに言われた言葉を忘れない。差し伸べられた手を恐る恐る掴んだその先に、今がある。私にとって古市左京という人間は─、尊敬する人間であると共に…。 少し左京さんが身じろぐ。近すぎた距離に気づき、左京さんから離れた途端に、彼はぱっと目を開く。私と同じく、一瞬ここがどこであるかを確認するかのようにあたりを見回した。 更に距離を取ろうと一歩後ずさろうとした瞬間に、私の手首を、体温の高い手が捕まえる。心臓が一拍、高い音を立てた。 こんな時にどのように声を掛けたらいいのかなんて、私の今までの経験では答えを導き出せないでいる。 「え、えっと」 私が次の言葉を繋げる前に、はっと左京さんは何かに気づいたようだった。 「悪い、間違えた」 ─間違えた、か。 気づいてしまった。左京さんが私を誰かと間違えたのかを。知っている。間違えた誰かを引き止めたかったその理由も。嫌だなあ、誰と間違えたんですか?なんて誤魔化して聞けるような度量もない。 唯一知っているのは、私のこの気持をどうやって閉じ込めるかだけの方法だ。 また一段と、強くなった雨の音が早朝の談話室に響いていた。 |