虧兎
互いの距離が、止まった。
考えようによっては喜ばしいことなのかもしれない。想い人と近い距離をずっと保っていられることは一番の幸福なのかもしれない。だけれど、もう一歩、進んだことをしてみたい。手を繋ぐのが精一杯の現状には満足しては居なかった。静雄と所謂恋人という関係になって早3ヶ月。一時は”仲のいい友達”であった時のように接することが出来なくなってしまうのかという危惧がの頭を悩ませたものの、むしろ友達だったとき以上の進展は無い。その為に、今現在は関心があるのか無いのかが分からない静雄に悩まされている。
『キス』、愛する人への愛情表現の一種。は少なくともそう認識していたのだが、恋人という関係に進んだ静雄との間には一切…恋人らしき行動は見られない。手をつなぐ、というのはほんの初歩に過ぎないわけで。感覚的には友人という肩書きでいた頃となんら変りはなかった。
「何凝視してんだよ」
「あ、いや…その牛乳美味しそうだと思って」
意識がどこかに飛んでったかのように、ぼうっとしていた。無意識に静雄を見ていたらしい。は、思ってもないことを言ってその場を誤魔化す。本当は牛乳は好きじゃないものの、気を効かせて「飲むか?」と静雄が差し出した牛乳パックを受け取った。…とても静雄の口許を見ていただなんて言えないとは冷や汗をかく。引きつった笑顔を貼り付けながら、礼を言い少しばかり飲み込んだ。
女子高校生ともなると、友人間では恋愛話というものはほぼ日常的になっていて、自分の事を話すことも少なくないのだが、にとっては満足な近況を話せないことも、また焦りへと繋がっていた。──、”間接キス”と”キス”の字面は同じようでも、実際は違う。こんな無機質な細い管を通してだなんて意味が無い。
*
放課後、一獅ノ帰ろうと静雄を校門で待っていると、駆けて出て行った臨也を静雄が鬼のような表情をしながら追いかけていったのを見た。はまたか、と後程届いてくるだろう静雄の謝罪メールを待つ為に、ケータイのマナーモードを解除する。よりかかっていた門から腰を離して歩き出す。
道には共に仲睦まじく下校するカップルや友人同士で笑いあう生徒の姿が嫌でも目に入った。の目の前を一人の男子学生が通り過ぎた後、不意に3つ先の電柱の影に、やたらと黒い人影が見えた。よく目を凝らさなければ、その影は揺らめいて見えた。
「…セルティ」
どこにあるか分からない目だけれども、その影は、はっきりとの姿を見ていた。人間を超越した視線に気づいたは、影に向かって走っていた。
「セルティ!久しぶり…、新羅のお迎え?」
『そんなところだけど…久し振りに会ったんだ。新羅とより、と話がしたい。そこの公園で話さないか?』
とPDAに羅列された文字から目を話すと、は満面の笑みをセルティに送る。さっきまで気落ちしていたのが嘘だったかのように大きく頷いた。
そして、促されるままセルティのバイクの後ろに股がる。刹那、影で作られたヘルメットがの小さな頭を覆った。引き締まりつつも女性的な曲線を持った腰に抱きつくと後は風を感じるままである。
*
「臨也ァァ!!!」
腹の底から目の前をひょうひょうと走る人物の名前を呼ぶと、黒髪の短髪を揺らしながら、男は振り向いた。ニィっと口許を最高まで引き伸ばすと静雄を挑発するように嘲笑った。静雄は青筋をもう一本追加すると、調度、視界の端に見えたゴミ箱の口を掴む。幾ら中身の詰まった鉄の箱とは言え、完全に我を忘れている静雄にとっては空気を掴むも同然だった。重さの感じ無いそれを、臨也が裏路地に逃げこむと同時にそこに向かって放り投げた。
ごみ箱が何かに当たって中のゴミが散乱したのは確実だったのだが、臨也を仕留めることは出来なかった。あちこちが凹んだごみ箱を隔てて、臨也、静雄はにらみ合う。
「シズちゃんさあー、最近どうなの?ちゃんとはさァ。惜しいよねえ、ちゃんも。俺を選んどけば寂しい思いしなくて済むのにさ」
「テメエは何を言ってやがんだ…取り敢えず一発殴らせろ」
「はいって言って簡単に頬を差し出す馬鹿がいるとでも思ってんの?相変わらずシズちゃんは頭が弱いね」
「あんだと…このモヤシ野郎が…」
ピンと張り詰められた空気が壊れたのは、臨也の一言だった。
「ていうかさあ、本当は思ってるんでしょ?は実は自分のことは好きでないんじゃないかって。シズちゃんがに思ってる”好き”とがシズちゃんに思ってる”好き”は違うんじゃないかってさ」
「テメエに…何が分かんだよ」
静雄の搾り出した一言に臨也は勝ちを確信した。勿論、物理的な意味ではなく、心理的な意味である。幾らかナイフの使い方が上手いとはいえ、強靭な肉体を持つ静雄に肉弾戦で勝てるはずもない。なので、頭の切れる臨也は心理戦を得意とした。何も静雄相手に限ったことではなかった。同じような手でに迫ったものの、決して揺らがないの態度に、嫉妬から来た感情をぶつける相手もまた、静雄であった。
「だからでしょ?引け目を感じちゃっての唇一つさえ奪えやしない。池袋最強の男とあろうものが…情けない」
静雄側の空気が一瞬揺らいだ隙に臨也はこれを好機と見定め、その場を後にした。陽も暮れかかった池袋の空に高く笑うと、両手を広げ、達成感に充ち溢れた身体全体で、都会の臭いのする風を受けた。
一方の静雄は、先程の臨也の言葉と、無理やり気付かされた自分の本音に対する感情とに苦悩していた。数歩先に転がっているごみ箱を蹴り上げる。頭上に降り注いだ塵も煩わしい。路地を作るビルの壁を破らない程度に殴る程には理性が残っていた。汗で張り付く髪の毛を掻き上げると、静雄もその場を後にした。
*
公園のベンチはひんやりとしていた。真っ青に塗られたベンチはの白い肌を吸い込んでいくようであった。誰もいない公園に二人、ベンチに腰を掛ける。シューターが秋を感じさせる肌寒い風に身を震わせ、小さな声で鳴いた。
『静雄とは最近、どうだ?』
首をかしげながら端末を見せてくるセルティになんとも言えない人間臭さを覚えた。
は全て知っていた。セルティがデュラハンだということも、首を探しているということも全て、セルティの口から語られていた。現実離れしている話だとは思ってみても、にとってセルティは大事な友人の一人だということには変りが無かった。静雄から新羅を通して知ったセルティという存在。にとって初めて出来た腹を割って話せる事のできる女友達であった。
はしばし口篭った後、ゆっくりと口を開く。スカートの裾から出る膝を、冷たい空気から守るように手で覆う。
静雄に対しての不安と、自分の気持ちについての一通りの経緯を話すと、セルティは頷き、PDAに何本かの影と指とで文字を打った。時々、言葉を選んでいるのか指が止まりかけたがそれでもが何度目かの溜息をする頃には目の前に翳されていた。
『自分の気持は言わないと伝わらない、自分がしたいと思ったら行動に出せばいいと思う。恥じらいとかは二の次なんじゃないかな』
表情は見えないのに、セルティがにこりと笑ったような気がした。はその包みこむような雰囲気に指先がほんのりと暖まったような気がした。
*
「って言っても、ねえ…」
昨日、セルティと別れた後もずっと頭を悩ませているであった。
せめて、今日が終わるまでには白黒はっきりさせようと意気込んだのはいいのだが、いざとなると静雄の顔を直視できずにいた。
本日最後の授業、体育も終わりかけで皆、後片付けへと入っていた。テニスボールを片付けるよう命じられたの両手いっぱいには、テニスボールが入った籠が抱えられている。それは、時折の足元を不安定にさせた。躓いた拍子に飛び出た一つの黄色い球。が目でそれを追っていくと、やがてある人物の足元へと行き着く。
サッカーボールを一つ脇に抱えている、と同じ色のジャージを身に纏った静雄だった。
「ああ…静雄、それ取ってくれる?」
「おら」
静雄は完全に屈まずに拾いあげると、籠へと放り込んだ。
「持って行ってやるよ」
籠を取り上げられた後、急に空いた両手が空中をさ迷った。やがて、両手はの胸元へと落ち着く。体育着の胸元を握る手はやけに汗ばんでいる。「あ…ありがとう」と静雄の目も見ずに言うと、の挙動に違和感を感じた静雄は眉をしかめた。
「体育倉庫に持って行けばいいんだよな?」
「うん、そう…私も行くよ。静雄だけに行かせるのも悪い、し」
二人並んで歩く。なんら特別なことではない事なのに、の心臓はいつもよりも鼓動は早まっていた。その原因にあるのは、昨日のセルティの言葉。『言わなきゃ、伝わらない』という助言。は隣を歩く静雄に何度も口を開きかけるがいざとなると声が出なかった。
そうするうちにやがて二人は目的の体育倉庫へとたどり着く。開きっぱなしの入り口に入る。照明が設置されていない代わりに、入り口から橙色の光が倉庫内を照らすように差し込んでいた。されど薄暗いのには変りがない。濃い影がかった静雄の顔を見つめる。
「…昨日は悪かったな、臨也の野郎がよ、」
「あー…いつものことじゃない、気にすること無いって。臨也もつくづく暇だよね」
が、はは、と笑った後に再び沈黙が訪れる。籠を埃まみれの棚に置いた静雄は、に背を向けたまま、微動だにしなかった。ようやく決心が着いたのか、「あのよ、」と声をかける。その声色は弱々しく、一瞬にしてに不安を植えつけた。こちらの顔を見ない静雄、弱々しい声。はまさか、と嫌な妄想が生まれる。
「臨也に言われた事があってよ、情けねえが動揺しちまったんだ」
「…静雄らしくないね、いつものように怒鳴り返してやればよかったのに」
「まァ、な」
別れよう、とでも言われるのかと恐怖に駆られていたであったが、割と見当違いの静雄の言葉に安堵を隠しきれ無かった。
「…率直に聞く事にするわ。面倒臭えから。
、お前は俺のことが友達として好きなのか、恋人として好きなのかどっちだ?
正直、友達でいた頃となんら変りねえだろ…?接し方とか、よ」
の何かが切れた。ふつり、と頭の端の方で、形にするならば糸状の物を両手で引きちぎったのと同じような感覚がした。
一気に大股で静雄との距離を詰めると、の小さな手では掴みきれ無い静雄の二の腕を捉えた。静雄が驚き、振り向いたのを見定めると、は更に顔の距離を詰める。ぐい、と力を込めて腕を引っ張り、静雄が背を丸め反射的に前かがみになったその瞬間、静雄の唇に荒々しく口付けた。
半ば口付けるというよりは、当てるという表現に近かったが、静雄が目を見開いたのとほぼ同時にそれを離した。
「…静雄の事、男として見てなかったら、こういう事したいとも思わないし、キス…してくれないってだけで毎日頭を悩ませるようなことも無かったよ。それほど静雄が好き。もう友達としてなんか見れるワケがないでしょ…!」
息継ぎをせずにまくし立てるを見、目を見開いたままであった静雄の表情が段々と柔らかくなっていった。まともに顔が見れずに俯いているを、静雄は愛しさを込めた眼差しで見ざるを得なかった。一歩分の空隙を埋め、その細い肩に指先だけで触ると、微かに震えていたのを感じた。
「悪ィ…杞憂だったわけ、か。むしろ不安だったのは…」
『の方だったのか』とは繋げず、何も言葉を創りださない代わりにその白い皮膚を纏った小さな顎を指先で持ち上げる。上を向いたと視線がかち合い、それから何かに引き寄せられるかのように、今度は深く、二つの温度を重なり合わせた。
授業終了のチャイムが遠くで響く。二人には当然聞こえてはいなかった。